第二次世界大戦は工業技術の戦いであり、前線の背後で働いた技術者たちの力量が勝敗を大きく左右した。本車―T-34の主任設計技師であったミハエル・コーシキンは、連合国の勝利にもっとも貢献した技術者の一人であったろう。おもしろいことに、ロシアの戦車技術者たちは自分たちが開発したT-34の真価を知らなかった節がある。彼らは自分たちの技術が西欧諸国に劣っていると信じており、なかんづくドイツは自分たちと同等か、もっと優れた戦車を開発していると考えていた。1941年6月、ドイツ軍が国境からなだれ込んで来たとき、実際にはT-34がどのドイツ戦車よりも優れていることが初めて判明するのである。 ロシアがもっとも重要な兵器のひとつで、最初からドイツを凌駕するものを所有していたことの意味は戦争全体にとって計り知れないものがある。ドイツ軍はモスクワの手前50kmまで迫ったが、開戦時に存在し、敗北の中で消耗し尽くされた1000両のT-34がなかったら、あるいはその50kmは失われていたかも知れない。
T-34はモスクワの守護神となり、スターリングラードやクルスクで勝利し、最後にはベルリンに突入してナチスにとどめを刺した。
しかし、ミハエル・コーシキン自身はこのようなT-34の活躍ぶりを知ることはなかった。彼は独ソの開戦前に若干30代で世を去ったのだ。死因は肺結核だった。
【追記】スティーヴ・ザロガ、ピーター・サースン著『T-34/76中戦車 1941-1945(世界の戦車イラスト界レイテッド7)』(大日本絵画 2001年)によれば、ミハエル・コーシキンの死因は、上に述べたような肺結核ではなく肺炎であったとのことである。厳冬期に行われたT-34の走行試験が原因とも伝えられる。
タミヤさんのT-34は、かつて1942年型を作ったこともありますから、「勝手知ったる組みやすさ」でした。本体キット、モデルカステンの無可動連結式履帯、ともに9年前に購入したまま押し入れにしまわれていたものです。 |