(2) T34/85-死者の遺した剣

2001年11月26日

 第二次世界大戦は工業技術の戦いであり、前線の背後で働いた技術者たちの力量が勝敗を大きく左右した。本車―T-34の主任設計技師であったミハエル・コーシキンは、連合国の勝利にもっとも貢献した技術者の一人であったろう。
 おもしろいことに、ロシアの戦車技術者たちは自分たちが開発したT-34の真価を知らなかった節がある。彼らは自分たちの技術が西欧諸国に劣っていると信じており、なかんづくドイツは自分たちと同等か、もっと優れた戦車を開発していると考えていた。1941年6月、ドイツ軍が国境からなだれ込んで来たとき、実際にはT-34がどのドイツ戦車よりも優れていることが初めて判明するのである。
 ロシアがもっとも重要な兵器のひとつで、最初からドイツを凌駕するものを所有していたことの意味は戦争全体にとって計り知れないものがある。ドイツ軍はモスクワの手前50kmまで迫ったが、開戦時に存在し、敗北の中で消耗し尽くされた1000両のT-34がなかったら、あるいはその50kmは失われていたかも知れない。

 T-34はモスクワの守護神となり、スターリングラードやクルスクで勝利し、最後にはベルリンに突入してナチスにとどめを刺した。
 写真のモデルは1942〜43年にドイツが投入した新しい強力な戦車群に対抗するために85mm砲を搭載した最終型である。この戦車は、戦後ソビエト軍から消えた後も第三世界の諸国を中心に使用され続ける息の長い兵器となった。最近では、ボスニアの内戦でもその姿が見られた。

 しかし、ミハエル・コーシキン自身はこのようなT-34の活躍ぶりを知ることはなかった。彼は独ソの開戦前に若干30代で世を去ったのだ。死因は肺結核だった。
 人は生きて歴史に参与するが、思想家や科学技術者はしばしば死後も歴史を変える。死せるミハエル・コーシキンの手が作り出した兵器は、祖国を蹂躙された兵士たちの報復の剣となったのである。

【追記】スティーヴ・ザロガ、ピーター・サースン著『T-34/76中戦車 1941-1945(世界の戦車イラスト界レイテッド7)』(大日本絵画 2001年)によれば、ミハエル・コーシキンの死因は、上に述べたような肺結核ではなく肺炎であったとのことである。厳冬期に行われたT-34の走行試験が原因とも伝えられる。
 T-34は、敵味方を問わず何百万という膨大な人間の死に関わり合った兵器である。ほかならぬコーシキンその人が、その最初の一人であったわけだ。


キット:タミヤ
スケール:1/35
制作者:不肖、私
制作時期:2001年9〜11月

 タミヤさんのT-34は、かつて1942年型を作ったこともありますから、「勝手知ったる組みやすさ」でした。本体キット、モデルカステンの無可動連結式履帯、ともに9年前に購入したまま押し入れにしまわれていたものです。
 今回、アベールのエッチングパーツを初めて購入しました。解説書とパーツを見て、目が点になり、その後吐き気をもよおしました。結局、エッチングパーツはごく一部のみ使用しています(T_T)
 手すりはすべて0.5mmの真鍮線に交換、砲塔は鋳造ラインを筆による溶きパテ盛りで再現してあります。ディティールアップはそんなところです。
 自分ではなかなかうまくいったと思っている塗装ですが、パステルなどは使用していません。塗面に耐久性がないのが、どうも嫌で……。使用したのは、ラッカー系とエナメル系の普通のプラスチックモデル用塗料だけです。反省点としては、ドライブラシは少々きつすぎたかなと思います。
 ソ連戦車はOVEとかほとんどなくて組み立ては楽ですね。今ドイツ戦車に手を付けてその複雑さにへーこらしています。    


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