的はずれ人物伝 PART 2

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 フィリップ・K.ディック――アメリカのSF小説家

 SFファンのコア以外の人たちには、フィリップ・K.ディックは「ブレードランナー」、「トータル・リコール」といった映画の原作者として知られていると思います。

 しかし、ディックを愛する読者なら、上の映画作品がディックの世界に独特の夢魔に魅入られたような世界を忠実に表現していないことに同意していただけるでしょう。
 ま、映画は映画、小説は小説ですから、それはそれでいいと思うし、「ブレードランナー」など六高寺もビデオを買い込んで何度観たかわからないくらい好きな作品です。この作品には、最後に「ディックの思い出に捧げる」旨の献辞が付されていて、監督リドリー・スコット以下制作サイドのディックへの思い入れが感じられます。ちなみに、スコットはMacintoshがデビューしたときの有名な「1984」コマーシャル・フィルムを撮った人でもあります。(ああ、話が際限もなく拡散していく……)

 さ・て・と。(と、仕切り直す)
 フィリップ・K.ディックがどんな人だったかと言いますと、一種の破滅型の人物だったと言えるでしょう。
 あえてレッテル貼りをやりますと、「反体制活動家」「大学放校者」「麻薬中毒患者」「極貧生活者」「離婚経験者」「精神病患者」そして「SF作家」。  このうち、ひとつやふたつに当てはまる人は別に珍しくもないでしょうが、全部かかえているとなると、これはやはり破滅型でしょう。

 彼は1928年生まれ、50年代の初めには、ROTC(予備役将校訓練部隊)への入隊を拒否してカリフォルニア大バークレー分校を追い出され、専業作家を目指してレコード店の店員も辞めて、ラッキー・ドッグ・ペットストアの犬用の馬肉を食べながら(貧乏だったわけです)ひたすら小説を書いていました。ときどき彼の部屋のドアをノックするのは、警察、FBI、果てはOSI(空軍情報部)の関係者たちで、この無名の作家志望の若者は、小説の世界より先に公安関係でちょっとした有名人だったようです。
 彼は60年代に先駆けた怒れる若者のひとりでした。

基本的に、わたしはおとなしいたちじゃない。バークリーに育って、そこから一つの社会意識を受けついだせいだろう。60年代に全国にひろがって、ニクソンを追いだし、ベトナム戦争を終わらせ、その他もろもろのよいこと、公民権運動ぜんたいを生みだした、あの社会意識だ。
(参考文献15頁)
 彼は、そのまま怒れる小説家となり、ついに亡くなるまで怒れるSF作家でした。
 その後、作家として著名になりますが、麻薬中毒となり、2年間「ストリート・ピープル」の仲間入り、麻薬から抜け出した後、カナダでらんちき騒ぎの生活、引っ越し先で結婚、やっと落ちついて創作を再開しますが、やがて夫人は息子を連れて出ていってしまいます。

まあ、ヴォガネットの言葉をかりれば、そういうものだ。ほかになにがいえる? それは現実ぜんたいと似ている。人間は笑うか、それとも−−たぶん、へこたれて死ぬしかない。
(参考文献21頁)
 日本にもしばしば見られる破滅型作家と彼が異なるのは、彼が破滅型たることに特別な美意識を見いだしていたわけではないという点です。ディックにとって破滅と死は敗北であり、戦うべき敵でした。
 私は彼の作品に、死と破滅に対峙する自我の挑戦としての「問題意識」を見いだします。

SFは反抗的な芸術形式であり、そこに必要とされるのは、書き手と、読み手と、よくない態度――「なぜ?」とか、「どうしてそうなる?」とか、「だれがそういうんだ?」と問いかける態度である。これは、わたしの作品の中で、「この宇宙は現実か?」とか、「われわれは本当の人間か、それとも、中にはたんなる反応機械もいるのか?」といったテーマに昇華して現れる。
(参考文献14頁)
 彼はこういう自分の文学活動の底流にある問題意識を「よくない態度」つまりは反体制的な態度とみなしていました。彼は、それをアイデンティティの不安の問題に深化して作品化する能力をもつ、類まれな小説家でした。ディックは自我をとりまく現代の見えざる脅威を鋭敏に感じとり、創作活動を通じてこの脅威と真正面から向き合っていたのです。それは一種彼なりの「戦い」であったように思えます。このような感性を持つ人物にとって、現実と折り合いをつけることは、難しかったことでしょう。

 フィリップ・K.ディックは反逆の時代の子です。そして、血肉となった反逆の精神とともにしか生きられなかった人でした。
 青年期を送った時代の影響によって反逆の種子を心に宿す人は、まま多いでしょう。しかし、たいていの人は時を経るにしたがって現実と折り合いをつける方法を学んでいきます。かくいう六高寺もそういう類の人間です。それが大人になるということだという人もいますが、六高寺はそうは考えたくはありません。
 おそらく「大人になる」という理屈で今の自分をすんなりと肯定できる人にとっては、ディックはつまらない作家だと思います。
 幸か不幸か、私はディックが好きです。
 ディックを読むことで得られる感動は、私の胸中の反逆の種子がまだ死に絶えたわけではないことを、悟らせてくれるのです。

・参考文献
マーク・ハースト編「ザ・ベスト・オブ・P.K.ディック III」(サンリオ文庫)1984年 サンリオ
(本書の「まえがき」(浅倉久志訳)はディック自身の手になるもので、この項の引用はすべてそこからのものです)

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 ジャック・ジョンソン――アメリカのプロボクサー

 怒号と罵声。
 男は振り返らない。
 「足を使え! やつは限界だ。一発逆転を狙っているぞ」
 人々の憎しみの視線を一身に浴びながら、男はセコンドに微笑みで返事をかえす。
 その笑みさえ、観客には憎々しげな殺人者の薄ら笑いに映った。
 ゴングが鳴った。
 「なにを憎むのだ」
 マウスピースを入れた口の中で男は独りごちる。
 「なにを恐れるのだ」
 動きの鈍った挑戦者のダッキングが止まって見えた。男は彼の動きを操るように巧妙なジャブを放つ。
 「奪えるものは、すべて俺から奪ったくせに」
 疲労が挑戦者のパンチを大ぶりにしていた。もはや、彼の拳に男を倒せる力はなかった。
 「俺が強すぎるからか。愛した女と肌の色が違うからか」
 試合を申し込んだ相手はいつも逃げ腰で、男と試合ができない言い訳を探していた。白人と黒人の試合を禁じる州はいくらもあったから、言い訳を見つけるのは簡単だった。
 それでも男は勝ち続けた。世界チャンピオンとなり、祖国の栄光と黒い肌を重ね合わせるために。
 だが、その代償は国中の呪いだった。ついには、試合のため海外に出た男の帰国さえ、彼らは拒んだ。
 「憎ければ、憎むがいい」
 男のフックが挑戦者の脇腹をとらえた。
 「俺はおまえたちが怯えているわけを知っている。あの白頭巾の連中とおんなじだ。おまえらは、神様がこの黒い肌に宿る魂を、おまえら同様祝福するのが怖いんだ」
 男の脳裏に、あの日の夜の記憶がよみがえる。
 KKKの嫌がらせの呼出状。
 友人や妻の制止も聞かず、男は呼び出しの場所に出かけていった。
 KKKは、まさか男が本当にやってくるとは夢にも思わなかったようだ。連中の慌てふためいた顔は、今思い出しても愉快だった。男は気押される白人たちの前で、人種平等主義の演説をして家に帰った。
 「俺はあんたを憎んじゃいない」
 男は、なかば意識を失いかけながら立っている白人の挑戦者の目を見て言った。
 「あんたはずっとましだからだ。あんたは俺とこうしてリングで戦っている」
 何発かのずしりと重い手応えのあるパンチの後、挑戦者はマットに崩れ落ちた。
 テン・カウント。
 男の勝利を称える拍手はなかった。
 怒号と罵声。
 男は振り返らない。
 客の投げた菓子やら果物やらが背に当たるのを感じながら、男は殺気立った観客席の中を引き揚げていった。
 「よくやったな」とセコンド。
 「ああ……次も勝つさ」男は今度は真剣な目で彼の顔を見た。「この次も、そのまた次も俺はきっと勝つ」
 控え室にたどりつくと、男は硬い表情を少し崩してつけ加えた。
 「それがボクサーの仕事だからね」

           *     *     *

 ジャック・ジョンソン〜ボクサー。1908年から1915年まで世界ヘビー級王者。黒人初のチャンピオンだった。

           *     *     *

 彼から1937年のジョー・ルイスまで、黒人の世界ヘビー級王者は生まれていません。
 ルイスはジョンソンを反面教師とし、白人女性といっしょに写真に収まらないなど、白人の怒りを買わないことに細心の注意を払っていたそうです。
 ボクシングの世界ヘビー級ランキングに多数の黒人が進出していくのは、このジョー・ルイスの時代からです。
 ルイスは38年、人種差別を国家政策としたナチス政権下のドイツ人選手マックス・シュメリングと戦い、これを降します。ニューヨークポストは「彼は人種の英雄だ。人類という人種の英雄である」と彼を称えました。
 私は同じ言葉をジャック・ジョンソンへの賛辞にしたい誘惑にかられます。

 今回、資料不足でしてショート・ショート小説で逃げました(^_^;)
 試合は架空のものですが、ジョンソンの妻が白人だったこと、帰国拒否事件やKKKにまつわる逸話などは事実です。

・参考文献
「世界名ボクサー究極の100人」(ワールドボクシング誌1988年12月増刊号)日本スポーツ出版社

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 ジェレミー・ベンサム――18〜19世紀の法学者、政治思想家、哲学者

 歴史には、偉大な年というものがあるもんだなあ、と思います。

 私が学生時代に取り組んだ18世紀では、1776年がそういう年でした。
 この年、アメリカ合衆国が独立を宣言し、アダム・スミスが心血を傾けた「諸国民の富」が世に出ています。そして、やはり同年に生涯を閉じたデビッド・ヒュームの衣鉢を継ぐかのように、この年に初めての著作を出版したのがジェレミー・ベンサムでした。

 このベンサムのデビュー作「政府論断章」は匿名で出版されたため、巷間著者に関するさまざまな噂が囁かれました。当時、この本の著者ではないかと取り沙汰された人々を挙げますと、政治家ジョン・ダニング、政治思想家のエドマンド・バークなどが見られます。ベンサムがまったく無名の若者だったことを考えると、これは彼の本に対するすばらしい評価そのものだったと言えましょう。

 ベンサムという人、この処女作に始まり、やたらと自作を匿名で発表しております。トーリー党支配の下で、政治的筆禍事件を恐れたという実際的な事情はあったのですが、それにしてもベンサムはこういう点で極度に慎重な人でした。彼の著作には、筆禍を恐れて何年も日の目を見なかったものがあるくらいです。

 しかし、「政府論断章」はほどなくベンサムの著作であることが知られてしまいます。情報の漏洩元は、彼が本を出したことに浮かれ喜んだ父のジェレマイア・ベンサムでした(^_^;)

 これにはちょっと「前史」があります。
 ジェレマイアは弁護士の仕事と土地取引で財をなした人で、息子のジェレミーにはたいへんな期待をかけていました。
 ベンサムは父の意向もあって、ウェストミンスター、オックスフォードと進んだ後、法律学校で法廷弁護士の資格をとりますが、この人、弁護士としてはまるでダメだったらしいのです。彼への依頼者は、訴訟を早く片づける方向でのアドバイスを受けるばかりで、ようするにベンサムは、この職業にまったく興味をもてなかったらしい。息子にひとかどの人物になってほしいと願っていたジェレマイアは、当然大いに落胆しました。
 ただ、注意しておきたいのは、ジェレマイアが、ベンサムに経済的な成功を願っていたわけではなく、もっと高次な意味で立派な人物になってもらいたいと考えていたことです。彼のミスは、才能ある息子に弁護士という職業を押しつけたことで、それ以外の点では、よい父親だったと言えましょう。

 というわけで、そんなジェレマイアにとって、息子の書いた本がロンドンの知識層のあいだで評判になったという事態が、「もーだまっていられない、アタマじゃわかってても、口が勝手にしゃべりだす」てなもんだったことは容易に想像できます。

 さて、「政府論断章」の出版は、ベンサムの人生に思わぬ影響をもたらしました。
 この本を通じて、ベンサムは国務卿シェルバーンの知遇を得、シェルバーン邸に出入りするようになります。彼はそこで生涯の痛恨時、大失恋を経験するのです。
 相手は、やはりシェルバーン邸に出入りしてしたキャロライン・フォックスという女性でした。求婚を断られた傷心のベンサムはセンチメンタル・ジャーニーにでかけるのですが、その行き先がなんとロシアで、2年間もイギリスに帰国しなかったのですから、そうとうの重傷です。
 ベンサムは1805年にも同じ女性に求婚して、またも断られ、さすがにプロポーズではありませんが1827年にも(ベンサムなんと79歳(^_^;))彼女に恋文風の手紙を書いています。
 彼は(彼も、というべきか)生涯独身でしたが、どうもその理由は「キャロライン命」であったようです。
 ちなみに、このロシア時代、彼はなぜだか刑務所の建築設計と運営に関する本を書いています。失恋の暗い気分の反映だったのかも(^_^;)

 さて、その後のベンサム、ジェームズ・ミルというスポークスマン兼親友を得て、評論誌を創刊するなど、「哲学的急進派」の中心としてイギリスの言論界で活躍するのですが、そのへんは飛ばしまして、と。

 彼は84歳で亡くなりますが、その遺言がとんでもないもので、自分の遺体で自分の像を作れ、というものでした。遺言に基づいて、彼の遺体は友人たちの前で解剖され、その骨を使って生前の衣服を着てステッキをもったベンサムが復元されました。
 この復元像、六高寺は、骨にロウを盛って作ったという話と、ベンサムの皮も使ったという話(人間の剥製じゃ(+_+))を聞いておりますが、残念ながら詳しいことは知りません。
 このベンサム像は、彼が創立に関係したロンドン大学のホールに今も飾られているそうですので、見聞きした方がいたら、是非コメント願います。(私は、はっきり言って見たくない(^_^;))

 ジェレミー・ベンサムという人、社交が苦手で典型的な学者肌だったほかは、性格的にもあまり奇妙なところはないのですが、そのわりにはヘンな話が多くて、六高寺、今回は書いててらくちんでした(^_^;)

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 北一輝――軍部皇道派の思想的指導者

 最近、「トンデモ本の世界」という本を入手しまして、にやにやしながら眺めております六高寺であります。この本、UFO本、疑似科学本、陰謀本、予言書本などを紹介、笑い飛ばしている本でして、じっつにオモシロい(笑えます)。
 で、この「トンデモ本の世界」を読んでいて、私が読んだ古典の中にも、この本に取り上げられているのに負けない、とんでもねーのがあったことを思い出しました。

 北一輝著「国体論及び純正社会主義」がそれであります。
 北の著書としては「日本改造法案大綱」のほうが有名ですが、中身のすごさは同書のほうが上でしょう。

 私、実は学部学生時代のゼミで北のこの本の読解を担当したことがありまして、ひと夏、この本と取り組むことになったことがございます。いやー、おかげでひでー夏を過ごすハメになりました。
 本書は北の23歳のときの著作で、引用、言及されている書物、思想家を見ますと、この人、たいへんな勉強家であったことは確かなようです。西洋古典の有名どころはほとんど読破しているようだし、日本の各界の学問的重鎮の著作も実によく読んでいる。しかし、その理解、解釈となると???もんの連続でして、百花繚乱縦横無尽の議論と相まって、(?_?)(?_?)(?_?)(?_?)(?_?)となり、読者脳乱に陥ること請け合いの奇書であります。

 北は法律学的国家論については、主権は国家に存するとする国家主権論をとっています。これ自体は別段珍しい説ではなく、おもにプロイセンなどの啓蒙専制君主統治下の国に見られる、君主主権論と西欧的な国民主権思想の法律学的妥協の産物なのですが、北において特徴的なのは、彼がこれを独自の社会進化論の脈絡に位置づけていることです。彼は「国体論及び純正社会主義」の第3編を「生物進化論と社会哲学」として、このあたりを論じていますが、これがすごい。

「この自由恋愛論は雌雄淘汰律の発動の自由にして、この生存競争によりて淘汰さるる失恋者は社会主義の如何とも能わざる所の者なり」
 このあたりから、なんかヘンだなと思ったのですが……議論は、彼の描く未来像におよび

「只如何せん、人類の神と仰ぎ、仏と仰ぐ所の理想の美に於ては排泄作用なきに、吾人にはこの醜怪極まるものあり。(中略)この醜怪を維持しては神の美に非らざるは論なし。而して吾人は亦目的論の哲学と生物進化の事実によりて、人類がこの排泄作用より脱し得べきことを確信す」
 げっ。人類が進化するとトイレがいらなくなるの(?_?)

「人類は更に交接作用を廃止すべし」
 え?

「両性抱擁の醜怪なる方法は凡ての生物の生殖行為にあらず」
 醜怪って、そりゃあんたの価値観でしょうが。

「人類が進化の過程たる雌雄競争の要なきまでに進化せるとき――何をかはばからん。吾人は生殖作用の廃滅を断言す」
 (?_?)(?_?)(?_?)

「この愚かなる知識の人類、この卑しむべき道徳の人類、この醜き容貌の人類、排泄作用と交接作用とをなしつつある人類の一日も早く滅亡して「神類」の世の来たらんことは胸轟くべきの歓喜に非らずして何ぞ」
 も、妄想だ! これじゃ、「宇宙人が私にそっと教えた人類の未来」のたぐいと全然違わん!!

 このあたり、北にとっても余談なのでしょうが、肝心かなめの部分でも、社会と国家の語義の区別があいまいだったり、社会主義とは国家主権体制のことであり、立憲君主制たる明治国家はすでに社会主義だったりするのですから、もーアタマが痛い。いやはやどんな脳ミソしてたんだろ、この人。

 正直、青年将校たちに影響力をもっていたと言われる人の本がこういう内容だったのはオドロキでした。
 端的に言えば、西洋古典とその影響下の日本の学者たちの見解をミキサーにかけ、その上澄みをとって「北」印のアジシオをかけたのが、彼の著作です。こんなことができた北という人が、そうとうの秀才だったことは確かでしょうが、真の独創性という意味からいえば、彼が大思想家に伍すべき天才と言えるかどうかは、はなはだ疑問です。

 一方、彼は一種独特の雰囲気をもったカリスマ的人物でした。その2・26事件における悲劇的な最期によって、彼のカリスマ性は永遠の神話になったと言えましょう。今なお、彼の全体像をそのカリスマ的なムードで捉えている人は多いと思います。

 私は、彼のカリスマ性にはそろそろ終止符を打たれるべきだと考えています。彼のカリスマ性と影響力は、思想史という観点から見て、戦前の一時期、私たち日本人がいかに惨めな精神性の下に生きていたかという事実の例証です。日本にも独創的な思想家はいましたが、彼らは北のような人物の影響力を阻止できなかったのですから。

 翻って、現代の「トンデモ本」ですが、北の例を見ると、あまりバカにしてはいけないのかも知れません。
 たとえば、「ユダヤ民族の陰謀」など、私にとっては「民族の陰謀」という観念自体、「タンスの陰謀」とか「ネコのミー君の陰謀」というのと同じくらい意味不明・理解不能なのですが、これらの「陰謀本」はいずれもよく売れているのです。(おそろしや)  みなさん、クーデターや戦争にならない内に、やはり叩くべきものは叩いておきましょう。

・参考文献
北一輝著「国体論及び純正社会主義」(北一輝著作集1)1959年みすず書房

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 W.ユージン・スミス――アメリカの報道写真家

ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞきたい言葉は「客観的」という言葉だ。そうすれば、出版の「自由」は真実に大きく近づくことになるだろう。そしてたぶん「自由」は取りのぞくべき二番目の言葉だ。このふたつの歪曲から解き放たれたジャーナリストと写真家が、その本物の責任にとりかかることができる。
 さて、みなさん、この著名なフォト・ジャーナリストによる報道の「客観性」と出版の「自由」の否定は、いったいどう考えたらいいのでしょうか。

 W.ユージン・スミスは、フリーのフォト・ジャーナリストとして最高の評価を受けた写真家のひとりです。彼の作品は奇跡の所産とまで言われ、今日、そのすべてがアリゾナ大学に永久保管されています。
 彼は、上の言葉の通り、取材対象に対する立場を明確にしていました。
 水俣市に住み込んで、公害に苦しむ人々と行動をともにしながら制作した写真集「水俣」は、そこで起こったことの記録、報告というより、まさに抗議と告発の書でした。
 また彼は、数は多くはありませんが、しばしば写真の合成を行ったそうです。スミスにとって重要なのは、「真実」を表現する写真作品であり、「客観的」な記録ではありませんでした。
 そう。「真実」こそが、つねに彼の仕事の中心でした。彼は口癖のように「真実だけが、私の唯一の偏見なのだ」と言っていたそうです。

 彼はまた、こうも言っています。

ジャーナリズムにおける私の責任はふたつあるというのが私の信念だ。第一の責任は私の写す人たちにたいするもの。第二の責任は読者にたいするもの。このふたつの責任を果たせば自動的に雑誌への責任を果すことになると私は信じている。
 スミスが、ジャーナリズムから除かれるべき「自由」について述べているのは、このような責任のことを念頭においてのことだったのでしょう。
 こういうジャーナリストだった彼は、しばしば雑誌社とトラブルを起こしています。世界的な写真家だったのにもかかわらず、経済的には生涯あまり恵まれなかったようです。

 W.ユージン・スミスは1918年生まれ、18歳で父親を亡くして翌年大学を中退、20歳のときにはプロの写真家でした。太平洋戦争の従軍記者として各地を転戦、沖縄で重傷を負っています。1971年から74年まで水俣で取材、このときにも右翼の襲撃を受けて大怪我をしています。
 水俣病の実態が世界に知られるようになるのは、彼の仕事によるところが大きいと言われています。妻であり有能な助手であったアイリーンは東京生まれで日本人の母をもつ人でしたから、日本には縁の深かった人でした。1978年没。享年59歳でした。

 スミスは正義と真実の人でした。しかし、私はむしろ、彼の正義と真実を支えた内面の強靭さに驚嘆を覚えます。真実と正義を追うことはできても、徹頭徹尾それとともにあり続けることは、困難なものです。私など、「偏見も、また私の真実である」と認めざるを得ない。せいぜい「内なる偏見を認める勇気をもち、これと戦う覚悟のある人間である」と。

 私はスミスに対して心からの敬意を感じます。しかし、共感できるかというと、これはまた、別の問題です。どちらかと言えば、戦場の真実をみごとにとらえながら「所詮、オレは他人がひどい目に会っているのを写真にとってメシを食ってるイヤなヤツさ」と自嘲気味に語っていたキャパのような人に、私は好感を覚えます。

 上のふたつの引用は、「写真集・水俣」の序文よりとったものです。この序文の最後を、彼はこう結んでいます。

気づかせることがわれわれの唯一の強さである。
 「話題を追う」ことだけが、自分たちの役割であると勘違いしている現代マスコミの関係者に聞かせてあげたい言葉です。

・参考文献
W.ユージン・スミス、アイリーン・M.スミス著「写真集・水俣」(普及版)1982年 三一書房

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 チャールズ・ダーウィン――19世紀イギリスの生物学者

 チャールズ・ロバート・ダーウィン(彼自身は「ロバート」は用いなかった)が「種の起源」によってあきらかにした学説が、人類史上もっとも革命的なもののひとつであることを疑う人は少ないでしょう。今日、彼が乗り組んだ英国軍艦ビーグル号の航海と、彼の発見の物語は、これまたもっともよく知られた知の奇跡の物語となっています。

 しかし、ニュートンとリンゴの木の話ほどではないにしろ、この種の話にありがちな神話的歪曲は、ダーウィンとビーグル号の物語にもあるようです。

 おもしろいことにダーウィンがビーグル号に乗り込んだのは、正式の艦付の博物学者としてではありませんでした。岩波文庫版「種の起源」の八杉龍一氏の解題にも、彼は「艦長の友人の博物学者という資格」で乗艦したと述べられています。
 では、ビーグル号の正式の博物学者は誰だったかというと、それはビーグル号乗り組みの軍医でして、このころは軍医が軍艦のその方面の任務を果たすのが英国海軍の習慣でした。一方、ダーウィンの方はというと、艦長のフィッツロイに与えられた役割は簡単なものでした。
 それはフィッツロイの話し相手になることだったのです。

 フィッツロイは、この航海の直前に民間人の定員外の乗組員を探していました。条件は、ジェントリー出身の年若い博物学者ということで、この条件にダーウィンはぴったりでした。
 軍の測量艦だったビーグル号の航海は5年の長きにわたる予定でした。祖国を離れての5年の航海が乗組員にたいへんな精神的負担をもたらすことは想像に難くありません。ましてや、フィッツロイは艦内でもっとも孤独な立場、艦長だったのです。実際、ビーグル号の前任艦長は3年の任務の途中で自殺しています。
 条件のうち、ジェントリー出身の若者であることは、フィッツロイの話し相手としての適格から来ていました。そして、博物学者であることは、フィッツロイにとってはあまり重要ではないが、彼の候補者探しを容易にするためには必要な条件、つまり、博物学の関心以外に裕福な階級の青年を5年にわたって大洋に赴かせる理由は考えらなかった、ということです。

 ビーグル号の航海はやがて、生物学にとって史上最大の成果を帰結するのですが、ダーウィンの乗艦のきっかけをつくったフィッツロイがその個人的な期待をかなえられたかというと、そうでもないようです。
 当時のジェントルマンの慇懃な人間関係が、ふたりの仲を表面上取り繕ってはいましたが、このふたりの信条は、違いすぎるほどに違っていました。ウィッグ支持者だったダーウィンに対して、フィッツロイはトーリー党と奴隷制を支持する保守主義者で、熱心なキリスト教徒でした。

 グールドは、ダーウィンの心に「疑いの種」をまいたのは、このフィッツロイとの出会いでなかったのかと考えています。生物学的には「生物のデザインに基づいた神の存在証明」という信念(信仰)をもつフィッツロイの話に、5年間というものダーウィンは食事のたびにつき合わされていたのですから。
 彼が進化論で踏み越えた階梯は、フィッツロイの保守主義への反発と正しい探求心が結びついた結果だったのかも知れません。

 航海とは関係なく、晩年のフィッツロイは精神に錯乱をきたしました。彼はダーウィンの「異端の」学説を知って、その発想の源となった航海にダーウィンを連れ出した事をひどく後悔しました。彼は、学会の会場に乗り込んで「聖書、聖書」と叫ぶなど、奇矯なふるまいをした末に、最期にはピストル自殺を遂げています。

・参考文献
スティーヴン・ジェイ・グールド「ダーウィンの航海中の回心−艦長との5年間の会食」(同著「ダーウィン以来−進化論への招待 上」1984年 早川書房 所収)
ダーウィン「種の起源 上・下」(岩波文庫) 岩波書店
・本アーティクルについては、上記グールドの論考にあまりにも「おんぶにだっこ」であることをザンゲとともに告白しておきます。

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 ゴヤ――18世紀スペインの画家

 1790年、45歳のゴヤは友人のサパテールという人物に、次のような手紙を書き送っています。
(マドリードの流行歌の歌詞の紹介に続いて)
君がこれらの歌を聞いたらどんなに喜ぶことだろう。ぼくはまだ実際に聞いていないし、たぶんこれからも聞く機会はないだろう。というのは、ぼくはもうこうした歌の聞ける場所には行かないからで、それは、近ごろになってぼくは、自分がある特定の思想を持ち、人間がそなえているべきある種の尊厳を守るべきだと信じるようになったからだ。だから、君もわかるとおり、ぼくはあまり満足してはいない
 この画家が啓蒙の世紀の最後の動乱期に、いかなる「思想」を獲得するにいたったかは、ほとんど知られていません。画家はそれを示す資料を残しませんでした。
 しかし、この時期のゴヤに大きな変化のあったことは確かです。
 世界には、私的な幸福や立身出世より価値あるものが存在すること、芸術はそのような価値のために何ごとかをなし得るということ。これが、不惑のゴヤの悟ったことでした。

 ゴヤという人は不器用な人だったのだなあ、と思います。
 自分の技術と才能にいかなる意義と価値を見いだすかは、人さまざまでしょう。それを立身出世の道具と考えるか、それ以上の何ものかに役立てようとするのか。いずれにせよ、人はもっと若い時期に自分の生き方の概略を決定してしまうのが普通だと思います。

 ゴヤの前半生は、その才能のすべてを自身の立身に捧げた半生でした。アラゴンの寒村生まれの彼は、いわゆる「たたきあげ」の画家でした。王立美術アカデミーへの入学試験に失敗すると、いつの間にかイタリアに現れるといったぐあいに(画家として世に出る方法は、アカデミーを出るか、イタリアに留学してハクをつけるのが近道だったそうです)、ゴヤは若い頃から画家としての出世の道を切り拓くことに執心します。下絵描きからスタートして、宮廷画家の地位に登りつめるのは1789年、つまり、冒頭の手紙を書いた前の年のことでした。

 この時期のゴヤは、もうひとつ彼の人生に重大な影響を及ぼす事件にみまわれています。1792年、彼は熱病に罹って瀕死の重体に陥り、回復こそしましたが、聴力を永遠に失ってしまうのです。

 全聾となったことで、ゴヤの芸術はかえって人間の内面に迫る力を増したように思えます。ふたつの「マハ」像や戦争をテーマにした作品のような政治的道徳的タブーを打ち破るゴヤの後期の作品群は、人生半ばの彼の悩みと傷害を背負う不幸がなければ花開かなかったかも知れません。
 彼は首席宮廷画家、アカデミー絵画部長にまで出世しますが、カディス憲法の承認をめぐって国王に反対の立場をとり、1824年には病気の治療を理由としてフランスに出国しています。事実上の亡命で、彼は二度とスペインにもどることはありませんでした。

 隣国のフランスでは、啓蒙の時代はずっと以前に始まっていました。絵画の世界もまた、ロココの宮廷を飾った画家たちから、革命の大義を描いた新古典派の画家たちへと変遷していきます。ゴヤは、この時代の分かれ目を不器用な重い足取りで歩んだ画家でした。
 私には、彼が獲得した「思想」とは、芸術が奉仕すべき「思想」ではなく、芸術的自由の「思想」ではなかったかと思えます。いささか心もとない直感なのですが、ゴヤの作品は、なによりも鑑賞者としての自分自身を重視しているように感じられるのです。人間の尊厳を守る絵画ではなく、人間の尊厳としての絵画。彼の到達点はそんなものだったように思います。

 彼は晩年、ロマン派の旗手として日の出の勢いで画壇に駆け上がったドラクロワの作品について尋ねられ、「絵が下手だ」と評したそうです(^_^;)
 ゴヤの真意はわかりませんが、神話や伝説のドラマチックなシーンを題材にするロマン派の作風は、幾星霜の人間的苦悩を絵画にぶつけてきたゴヤには、やや浅薄に映ったのかも知れません。

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 大ノ里萬助――大正〜昭和初期の力士

 大ノ里萬助。本名、天内(あまない)萬助。最高位、大関。幕内通算成績、217勝147敗10分22休。

 力士としての大ノ里を一言で言えば、技の力士ということになりましょう。それも、大相撲史上まれに見る多彩かつ高度の技術力をもった力士であったと言ってよいと思います。明治以降の力士で、その技量を神技と賞せられたのは大ノ里と関脇・幡瀬川邦七郎くらいでしょう。

 身長1m64cm、体重97kg。
 現在の角界にくらべて当時の力士の体格が平均的に小さかったことを斟酌しても、大ノ里は超小兵の部類に入る力士でした。
 彼の取り口は、その体格の不利を技量と力で補うものでしたが、最近の舞の海や旭道山に比較しても、大ノ里の一番一番には力強さに満ちた印象があったそうです。彼の当初の渾名は「ネズミ」でしたが、大関昇進のころからは相手を真正面から受けとめる相撲に変わり、そのころから「岩」と呼ばれるようになりました。
 彼はまた、徳の人でもありました。土俵では鬼と呼ばれるほど厳しい人でしたが、土俵の外では人に慕われる人格者で、彼の薫陶と援助に恩義を受けた後輩力士は多いと言います。

 大ノ里萬助はその人望ゆえに、単なる名力士にとどまらない印象を後世に残すことになりました。

 彼は春秋園事件、すなわち角界を揺るがす力士の造反事件の主人公となるのです。
 力士の待遇改善、前時代的な茶屋制度の改革などの要求を相撲協会に突きつけた力士たちは、これが容れられないと見るや、独立して関西角力協会を設立します。この運動の中心にあったのは実は天竜源一郎で、大ノ里はその人望を買われて担ぎ出された格好でした。

 関西角力協会の力士たちは断髪して土俵に上がり、巡業の成績も番付に加味されたため、いついかなる時も真剣勝負であったと言います。
 しかるに、本家の威光の前に人気の方は振るわず、日本相撲協会に帰順する力士があいつぐ中、大ノ里は、1938年、巡業先の中国大連で寂しく世を去りました。46歳でした。

 この悲劇の大関の率いた改革運動が成功していたら、私たちは今ごろ、髷姿の力士たちを昔語りにしていたかも知れません。

 大ノ里萬助は、実は六高寺の遠戚に当たります。彼は私の父方の祖母・斉藤カヨの幼なじみのいとこでした。そんなことから、大ノ里の話は亡くなった父からよく聞かされました。

 地方巡業に訪れた大ノ里を祖母が「萬助、萬助」と呼ぶのを祖父の初太郎が「天下の大関を相手に、呼びつけとはなんじゃ」と咎めましたが、祖母は「萬助は萬助じゃもん」と、しらっとしていたそうです。大ノ里の方も気にするようすもなく、祖母と「萬助」「カヨ」で話をしていたということですから、気さくな一面もあった人のようです。
 大ノ里の未亡人は私の幼いころ、よく父を訪ねて来ましたが、私がその品のいい老婦人の素性を知ったのは、ずいぶん後になってからのことでした。

 ついでにエピソードをもうひとつ。
 大の相撲好きだった父は、大ノ里に「体が小さすぎて相撲取りは無理だが、行司はどうだ」と勧められたことがあるそうです。
 父がもし大ノ里の勧めに応じていたら……肥満児だった私が父のコネで相撲部屋に入門するハメになっていた可能性は大いにあり、しかもまれに見る運動オンチの私がその道に挫折していたことは、ほぼ100%間違いなく……ああ、そうならなくてよかった……

・参考文献
高崎守弘著「桜錦自伝」1962年 高崎守弘遺著刊行会
水野尚文、京須利敏編著「大相撲力士名鑑」1992年 共同通信社

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 ヘーゲル――18〜19世紀ドイツの哲学者

 その読者の数だけ、解釈と理解の種類がある。

 さほどに言われるほど、ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは解読困難な哲学者です。まあ、普通の人なら、彼の著作に触れたとたん、これが人類の書く文章か、と思うのがあたりまえでしょう。表現ばかりでなく、その巨大かつキッカイな体系は、読む者をして、拒絶か敗北の思い、あるいはめくるめく魔術の体系を我がものにした恍惚感かのずれかを感じさせるものです。それも、理解の正否にかかわらず。

 私は、ヘーゲルについて語る人々が、その奇怪さや難解さについて多くを述べないのは、非常に奇妙なことだと思っています。それは学問的スノビズムのひとつの現れなのではないでしょうか。

 私にとって、彼の巨大な体系の中でもとくに驚愕ものなのは彼の歴史観です。

 ヘーゲルによれば、世界史とは「世界精神の疎外の過程」であります。疎外という言葉はよけいなニュアンスが入り込みがちですが、「本来事物の内にあるものが外的に展開する」という意味の哲学用語です。つまり、「世界精神の疎外」とは、「世界精神が展開し、現実化すること」と解せます。
 で、この「世界精神」とは何か、と問われますと、なんだかよくわかりません(^_^;)
 まあ、とにかくこの「世界精神」は人類社会の完全な諸要素を観念的に含んでいるそうで、人類の歴史は、最終的には「世界精神」の実現として帰結すると説かれます。つまり、世界精神はその当初から世界の完全かつ最終の姿を内包している、ということですね。

 ヘーゲルのこの議論については、マルクスの批判が有名ですが、それについてはここでは述べません。
 今は専門的な立場を離れた六高寺の関心は、なにゆえにかくも奇妙きてれつな議論がプロイセン官製哲学と言われるほどの成功を収めたか、という点にあります。

 で、ここからは、六高寺の未証明無責任仮説であります。

 結論から言いますと、これは同時代の生物学、なかんづく発生説の考え方の歴史観への援用だったのではないか、ということです。

 18世紀後半から19世紀前半にかけて、発生説の通説は「前成説」という学説でした。
 それはカエルの子はなぜカエルになるのか、という疑問の解答で、シャルル・ボネら前成説論者は卵の中にカエルのミニチュアがあるからだ、と論じたのです。すなわち、卵(らん)は最初から複雑な成体と同様な構造を内包しており、この原基の成長が発生の過程である、というわけです。
 この学説は、卵の中の原基の中に、また複雑な構造をもつ超ミニチュアの原基があるといった無限の入れ子構造を想定しなければならないという難点があり、さらには、顕微鏡による観察技術の進歩によって、「後成説」、すなわち発生は単純な卵が複雑な構造に変化する過程であるという学説に退けられてしまいます。

 どうです? ヘーゲルの歴史観と前成説。似てますでしょう。
 今ほど学の諸分野の専門化が深化していなかった時代、ヘーゲルがこのような門外の分野の最新学説に親しんでいたことは、(証明は要しますが)ほぼ確実と思われますし、学生たちも同様だったのではないでしょうか。人々は、それが最新の科学学説に類似するがゆえに、ヘーゲルの説明を受け入れていたのかも知れません。

 さて、以上の仮説は「ナゾーの“ローンブロゾー”、ロンブローゾの名前起源説」(ロンブローゾの項、参照)ほどではありませんが、六高寺、まあまあの自信をもっております。
 が、研究職の道をあきらめて幾星霜、もはや六高寺には、この「ヘーゲル歴史観、前成説起源説」を論考、証明しようという気は毛頭ありません。どなたか、やってみませんか? 論証なった暁には、六高寺、仮説原案の権利を放棄いたします。(でも、結果は教えてね)

 格言。
 「真理はしばしば奇妙で不可解で非常識な言説をもって現れる。自らの常識を疑うのが大事だが、たまには素朴な感性も大切にしよう。それは奇妙な時代の奇妙な怪物なのかも知れないぞ」六高寺弦(20世紀の無名の思索家)

 (筆者傍白:ちっとも、人物伝になってねーじゃないか!)

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 エバリスト・ガロア――18世紀フランスの数学者

 学校生活への不適応、上級学校への入学試験の落第、父親の自殺、投獄、そして、女性をめぐる決闘での死。
 エバリスト・ガロアの21年の短い生涯は、不当にも才能を認められなかった若者の悲劇の、いわば代表格として多くの人に知られています。

 彼について語ろうとするとき、当惑せざるを得ないのは、ガロアが業績を上げた分野について、私がまったく無知無能なことです。絵画、写真、文学についても、私がそれらを正当に評する見識をもつかどうかはかなりあやしいと言えますが、数学となると、その業績の大さのわずかな実感すらもてないことを告白せねばなりません。
 私は、エバリスト・ガロアの数学について語る言葉をもちません。が、一人の若者が自らの属する世界にぶつけ続けたやるせない怒りについては、私にもなにか意味のあることが語れるだろうと思います。

 ガロアの悲劇は、彼の才能の早熟さにありました。
 15、6歳で当時の数学の最先端に達し、17歳のときには独創的かつ天才的な論文を書いていた少年にとって、学校はしだいに愚か者の集まりに見えていきました。自分を正当に評価する人間に出会えないこと、自分の仕事をまったく理解できない暗愚が自分をとりまく世界の支配者であること。ガロアにとって、それはまさに罪に満ちた世界でした。
 彼はさらに、17歳で学士院に提出した論文が数学者コーシーの下で忘れ去られるという悲運に遭遇。ついで、入学を熱望していた高等理工科学校の入試に2度も失敗しています。理工科学校の誰よりも遥かにすぐれた数学者となっていたガロアを試験官が理解できなかったのが、彼の落第の原因と言われています。その後も彼は今日革命的と評価されている論文を何本か学士院に提出していますが、担当者の怠慢や不幸な偶然の事故のために、いずれも正当な評価を得られませんでした。

 自ら確信していた才能に対してこれほどの迫害を受けた若者が、しだいに反抗的になっていったとしても、非難できる人は少ないでしょう。彼は周囲の大人たちにとって、鼻持ちならない傲慢さを備えた若者になっていました。

 ガロアの時代には、彼の息苦しいほどの閉塞感と怒りを受けとめるひとつの背景をもっていました。
 それは7月革命の動乱です。
 進学のかなわなかったガロアは共和主義者の拠点となっていた国民軍砲兵隊に入隊しました。やがて、彼はルイ・フィリップの政権にとって小物だが危険な存在として、投獄されてしまいます。当時、共和派の政治犯の待遇は飲酒や宣誓外出を許されるなど厚遇されていましたが、数学と世の不正を呪うことにしか関心のないガロアにとっては、そこは窒息しそうな場所でした。彼はそこでの宣誓外出の最中に、彼の死の原因になったらしい女性と知り合うのです。

 エバリスト・ガロアの生涯と時代は、私の見たもうひとつの時代の風景を想起させます。
 東京大学の安田行動が催涙弾と放水の嵐のなかで「落城」したとき、私は上野の山の公立中学校の生徒でした。「帝国大学の学生と言えば、昔は立派なものだったのに」といった、周囲の大人のいささかアナクロな感想とは違った、共感ともいらだちともつかないもやもやした気持ちとともに、私はその騒乱を見ていました。
 その後進学した高校は、高校紛争を処分者なしで解決した唯一の都立高校で、制服はおろか生徒手帳、校則、定期試験もない学校でした(私の入学の1年前まで通知表すらありませんでした)。そのリベラルな雰囲気に出会えたことは、私にとってたいへんに幸運なことだったと思います。
 にもかかわらず、私が高校生活とともに思い出すのは、やはりつかみどころのない閉塞感と不安、息苦しさ、そして自分をそこから解放する唯一の手段に思えた性急で無茶な正義感です。

 こういう息苦しさは、おそらく若い時期に共通のもので、時代との関係は希薄なのでしょう。しかし、それが生む衝動が何に向かうかは、「歴史的被拘束性」の下にあるとしてよいと思います。

 ガロアの怒りには、世界が彼に与えたあまりにも不当不正な扱いだけで、十分に合理的な理由を見てとれると思います。しかし、ガロアが革命という時代背景の下に生まれなかったら、ひょっとするともう少し長生きできたのかも知れません。彼の場合、数学と正義は、自らに下された不当な抑圧を通じて離れがたく結びつき、破滅にいたる怒りをその共振する関係のうちに増幅させてしまったように思います。彼は軽蔑し、反抗することによってしか生きられませんでした。
 告白すれば、私は彼に共感を感じます。私には理解できない彼の数学的天才にではなく、その不器用でバカげた生き方に、愚かにも共感するのです。たぶんそれは、彼より15年をよけいに生き、穏やかに生きるための小賢しい知恵をたくさん身につけてしまった者の感傷なのでしょう……。

 ガロアは死の直前、友人に宛てた手紙に書いています。

ぼくが死ぬのは、みじめな喧嘩のせいなのだ。ああ、何てつまらんことのために、何て下劣なことのために死ぬんだろう!
 彼は手紙のほかに、数学に関するメモを必死に書き残しました。メモの端には「時間がない」と何度も走り書きされていたそうです。彼は自分という存在の価値をとうに見限っていましたが、自分の見いだした数学的真理については、最期までその意義を確信していたのです。

 彼の決闘の事情については、詳しいことはわかっていません。わかっていることは、「卑しい身分の男たらし」の女性に関係して、名誉の問題をめぐり、彼がふたりの「愛国者」と決闘したということだけです。どのみち、ガロアには捨て鉢になるだけの理由は十分過ぎるほどありました。

 1832年5月31日早朝、ガロアの腹部に銃弾を撃ち込んだ彼の敵手は、彼をそのままにして決闘の現場を立ち去りました。彼を見つけた農夫が病院に運び、彼はそこで息を引き取りました。駆けつけた弟に彼はこう語りかけています。

泣かないでくれ。20歳で死ぬにはありったけの勇気がいるんだよ。
 運命は彼にわずか60ページ分の論文を書き残す時間しか与えませんでした。それらが正当な評価を得るのは、もちろん彼の死後のことです。

・参考文献
E.T.ベル「数学をつくった人びと 上・下」1976年 東京図書

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 アイザック・ニュートン――17〜18世紀の物理学者、数学者

 名誉革命後の時期、アイザック・ニュートンが造幣局長官の職にあったことは、すでにジョン・ロックの項で触れました。
 彼はそのとき50代になっており、すでにたいへんに高名な学者でした。

 彼はたいへん健康にすぐれた人で、85歳で亡くなるまで、無くした歯は1本、眼鏡を必要としたことはなく、頭髪は白くなるのは早かったが晩年までフサフサだったそうです。
 そんな彼が重い病にかかったことが一度だけあります。1692年の秋から、ほぼ1年間、彼はその病気のためにほとんど執務不能の状態でした。
 彼の病気は、今で言うなら一種のノイローゼで、その原因はどうやら上記の造幣局長官への就任をめぐる事情にあったようです。

 ニュートンは晩年、自分自身について「海辺のきれいな貝殻を集めている子どものようなもの」と述べています。彼の言葉通り、ニュートンは真理の発見に無上の喜びを見いだすタイプの人物で、立身出世にはあまり関心を持たない人だったようです。
 しかしながら実際には、世間の方が彼を一学者に留めてはおきませんでした。
 まず手始めに、人々は彼をケンブリッジ大学選出の議員に選びます。ニュートンはこのような職においても有能な人物で、政治家として地味だが意味のある功績を上げたと言われています。

 このことをもって、彼が政治を嫌ってはいなかったとする意見もありますが、私はちょっと疑問を覚えます。彼は学問上の論争ですら、それが白熱して学問の外に及んだりすること(たとえば、個人攻撃)をひどく嫌っていましたし、そういった事件が原因で「もう、うんざり」とばかり王立学士院に辞表を書いたこともあるくらいです。権謀術数、あらゆる手練手管が用いられる政治の世界を、彼が好んでいたとはあまり思えません。

 そんな彼を今度は造幣局長官にしようという運動が持ち上がりました。音頭をとったのは、ハリファックス伯やジョン・ロックでした。
 これがすんなりといけばよかったのでしょうが、事態はスムースに進まず、結果としてニュートンは百鬼夜行の政争に巻き込まれる形となってしまいました。

 もともと個人攻撃めいたことには敏感で被害妄想の気もあった(これだけでも、政治家には向かない(^_^;))ニュートンは、おりしも代表的大著「数学原理」を精魂傾けて書き上げた直後で疲れ切っていたこともあって、完全に神経がまいってしまいます。彼は自分の周囲に裏切り者がいるのではないかと疑い、しまいにはあの無欲なジョン・ロックにすらスパイの嫌疑をかけました。

 ニュートンは回復後、ジョン・ロックに反省と謝罪の手紙を書いていおり、今日私たちはこの手紙によって彼の被害妄想のひどさを知ることができます。

 その手紙によれば、ニュートンはロックが女性をつかって自分を陥れようとしていると疑い、ロックの病気のことを聞いて「死んだほうがいい」と公言し、ロックの哲学を「道徳を破壊」するもので「ホッブズ主義」だと言い触らし、さらにはロックは自分に官職を売りつけて自分を陥れるつもりだと「言ったり、考えたりした」そうです。
 このロックに宛てた手紙で、彼がこれらについて告白しつつ、いちいち謝罪しているのは、ちょっとマンガめいていて、笑ってしまいます。

 ニュートンの時代ほどではないにせよ、学者というもの、功成り名を遂げると、研究以外のさまざまな職務のお鉢が回ってくるもののようです。大学行政に始まり、学会の役員から政府委員会の委員と、私のお世話になった研究者の方々にも「研究の時間がとれない」と嘆いていた方がずいぶんいらっしゃいました。
 中には世間に知られた名誉ある職務に就くことを望んでいる人もいるのかも知れませんが、ほんんどの研究者は、そういう仕事を仕方がなくこなしているのではないでしょうか。

 冒頭述べた通り、最後にはニュートン造幣局入りは実現します。彼は1696年、いったん造幣局監察官に就任、99年には長官に昇進しました。
 この職務においてもニュートンは有能な官吏でした。彼はその後再び議員に選出され、さらに1703年から数度にわたって王立協会会長を務めています。

 彼は1727年に亡くなりました。流れに身を任せるように数々の重要な公職を務めたニュートンでしたが、自らを「貝殻を集めている子ども」にたとえたこの人物が、それを望んでいたのかどうかは大いに疑問です。

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