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 「アポスタシア」は、背教apostasyの意味。もとは、本文中の「背教」のところに「アポスタシア」とルビをふって、タイトルの意味がわかるようにしてあったのだが、HTMLではルビは使えないので補足しておきます。(なんか、情けないなあ)
 宗教をひとつ、でっちあげているが、宗教というよりイデオロギー全般と歴史の関係をモチーフにした作品だ。思い描いたテーマとイメージが、割と思い通りに書けたので、自分としては気にいっている作品でもある。
 物語の舞台は『残響』と同じで、この世界を舞台にした話は、いつかまた書きたいと思っている。
 同人誌『せる』掲載作品。


アポスタシア

 伝道者オルドレルが砂漠帯を越えてクリファに入ったのは、一の雪月も終わりに近づいたころだった。
 まず、砂漠の終わりを告げる草原が地平の彼方に見え、うっすらとした霧のような緑が日に日に広がりをもって視野を占めるにつれ、彼の胸には、砂漠帯を越えるという最大の困難に打ち勝ったことの安堵と誇らしさが満ちていった。
 「師よ、オーハンの歩んだ道です」
 従者のエルガイが言った。彼の声には、伝説の伝道者と同じ足跡をたどることの感激が満ちていた。
 「ハルコムとシュトラウスが歩んだ道でもある」とオルドレルが応えた。
 偉大なアトーの直接の弟子であるオーハンを含めて、今までに3人の伝道者がクリファに入ったとされている。オルドレルたちはクリファに入る4人目と5人目のアトー教徒となる。
 草原に入ると、オルドレルたちは進むべき道について新たな決断を下さねばならなかった。〈月の方位〉の海沿いをゆけば、道を誤ることも少なく、食糧や水の入手も容易であろう。しかし、海は対岸を領有するカシン辺境大爵の支配するところであり、クリファ側の沿岸にもカシンの植民市がいくつかある。アトー教徒にとっては危険の多い道であった。
 「内陸に向かうべきでしょう」エルガイが言った。「ここでカシンの手下に捕らえられたのでは、わざわざ海路を避け、砂漠帯を通ってきた意味がありますまい」
 エルガイが道を決めた。
 オルドレルを守り、伝道の地に無事に立たせること。それがエルガイの使命である。
 彼の陽に焼けたたくましい身体には、武人としてのたぐいまれな才能と幾多の戦場を経験することによって育まれた知恵と勇気とが宿っていた。その経歴に不似合いな美しい頬には、大きな刀瘡が刻まれている。彼はこの使命のために、百人隊長の職を投げうって従者を志願していた。
 クリファは無限とも思える草原また草原の世界だった。
 膝より高い草木は1本も無く、食糧の確保は今まで以上に困難だった。当分は砂漠越えで残った乾燥野菜や食用虫の繭を食い延ばさねばならない。オルドレルは本草学の知識を駆使して、食用に適する草をいくつか見出した。夜になるとエルガイが狩りに出て、少量ではあったがいくつかの食用虫を捕らえることにも成功した。
 「師よ」
 エルガイは固い草の根を燃やした焚き火で虫を炙りながら訊ねた。
 「クリファの民の不思議な力――彼らが人の心を読むというのは本当なのでしょうか」
 「そのように言われているし、そう信じている者も多い。真実は判然としないが……」
 ジュレル邦で生まれ育ったエルガイとは異なり、アンテロパの諸国をさすらった経験をもつオルドレルは、何度かクリファ人を見たことがあった。彼の見たクリファ人は王や熾爵などの宮廷に仕えていて、周囲の者はみな彼らを恐れていた。人々はクリファ人の心を読む力を信じていて、彼らが自分たちの心中をスパイしていると考えていた。
 「もし本当なら、彼らの存在の原理は、アンテロパの民人のものより高貴なものではないのでしょうか」
 エルガイはそれをずっと疑問に思っていた口ぶりだった。
 「我が師よ、神理はすべてをしろしめすとアトーは述べました。神とはもっとも高位の原理であり、もっとも遍くものであると。クリファの民が人の心を我がものとできるのなら、彼らは私たちよりも遍く存在であり、より高い存在だと言えないでしょうか」
 「彼らの力がどんなものであるにせよ――」
 オルドレルは焚き火に草の根をくべながら言った。
 「それがただちに彼らを神理に近づけているとは言えないだろう。優れた視覚、聴覚がただちに高位の原理を示すのではないのと同じに、人の心を読めたからといって、神理を学ぶ心が伴わなければ、やはり神理には近づけまい。そのような力は神理に迫るのに有利ではあろうが……」
 エルガイはじっと考えていた。オルドレルがさらに話そうとすると、エルガイは珍しくそれを身振りで制止した。
 「師よ、何かやってきます」
 それは、わずかな星明かりに照らされた緩やかな丘の上に見えた。
 「虫です」
 「角甲虫の一種のようだが、すごい大きさだ」
 それはアンテロパに生息する同類の4倍はあろうかという巨体を、ゆっくりとこちらに動かしていた。ゆうに平屋の家に匹敵する大きさである。しかも、1頭ではない。十数頭の群が一斉にオルドレルたちの方角に向かっている。
 「この火に向かっているようです。ここを離れましょう」
 エルガイはオルドレルを促して、焚き火から50歩ほど退いた。角甲虫は決して危険な虫ではないが、あの巨体に踏み潰されたらひとたまりもない。
 虫たちは焚き火を囲むようにして停止した。
 盛り上がった背中が連なった小山のように見えた。身体の大きさの割に小さな複眼が焚き火の光を映して虹色に輝いている。
 「エルガイよ、あれが六角獣だ。間違いない」
 「クリファの民が生活の糧としている虫ですね」
 オルドレルとエルガイは異郷の巨獣にしばし見とれた。クリファでしか見られないものに初めて出会ったことが、自分たちが異郷に在ることを、あらためて彼らに実感させていた。
 「師よ、あれが角甲虫の仲間なら、食糧になるでしょう」
 「そうだな。クリファ人もそうしているはずだ。しかし、あれを狩ることができるのか?」
 「あの甲殻を銃弾が貫通するとは思えませんが、背羽根の間を狙えば、仕留められるでしょう」
 エルガイは背中にくくりつけた袋のなかから短い銃を取り出し、撃鉄に火打ち石を取り付けると銃口から弾を込めた。
 「無理はするな、エルガイ」
 「神理のままに」
 彼は銃を手に、身を伏せたまま前進した。自分の気配を消すためには、慎重に風下から近づかねばならない。さらに、確実に背羽根の間を撃つには、そうとうな至近距離まで近づく必要があった。
 エルガイは、標的から10歩ほどの距離で銃弾を放った。
 六角獣たちが一斉に走り出した。彼に撃たれた六角獣も群の仲間とともに走り出したが、その動きは鈍かった。エルガイは六角獣たちから目を逸らさず、手探りで弾を装填し、第二弾を首の付根に向けて放った。
 六角獣は四肢を縮め、胴体をどしりと地に沈めた。
 「やったな、エルガイ」
 エルガイは駆け寄ろうとするオルドレルを制止した。
 「気をつけてください。まだ、生きています」
 彼は腰の剣を引き抜くと、まず首の付根を突き、それから背羽根の合せ目にそって虫の神経瘤をつぎつぎに刺し貫いた。
 その夜は獲物の解体で忙しいものになった。
 エルガイは角甲虫と同じ要領で六角獣を解体した。背羽根を動かす堅い肉は水分に乏しく、乾燥させれば簡単に干し肉になる。それ以外の肉も手持ちの岩塩と和えれば1巡月は保存できるだろう。
 日が昇るころ、二人は作業を終え、集めた食草と肉で食事をした。
 まだ六角獣の身体には大量の肉が残っていた。運べない分は、残念だが残していくしかない。
 徹夜の労働による疲労と久々の満腹感で、二人はいつのまにか眠りに落ちていった。


 最初に人の気配に気づいたのはエルガイだった。
 目を開けると、角甲虫の脚が目に入った。アンテロパ産のものと同じ、褐色の角甲虫である。その角甲虫に一人の男が跨がっていた。
 「師よ」
 エルガイは片手でオルドレルを揺り起こしながら、角甲虫に乗る人物の挙動をうかがった。
 「起きてください。師よ」
 その男は、髪を束ねて頭の上に結い上げ、裾の長い厚ぼったい衣服をまとっていた。肩の上には、背負った銃の筒先が見える。
 ようやく目を覚まして起き上がったオルドレルには一瞥もくれず、男は角甲虫を下りて死んだ六角獣を眺めた。
 「クリファ人か」オルドレルが訊ねた。
 男は問いに応えず、何かを調べるように六角獣の回りをゆっくりと歩いた。
 「クリファ人なのか」もう一度、オルドレルが訊ねた。
 「アンテロパ人よ、みごとな腕だな」
 男が口をきいた。カシン大爵領で耳にする方言に似た言葉だった。
 「足を動かす瘤に1発、首の付根に1発。虫に相当近寄らねば、こうはいくまい。これをやった者は輝ける勇気の持主だ」
 「お前の六角獣だったのか」エルガイが進み出て言った。「もしそうなら、謝罪する。砂漠越えで食糧が尽きていたのだ」
 「お前たちは海ではなく、砂漠から来たのか」男の声に驚嘆の響きがあった。
 「そうだ。この虫がお前の財産なら、我々には償う用意がある」
 「アンテロパ人よ、六角獣は大地のものだ。我々も生きるために六角獣を殺す。償いにはおよばぬ。大地に感謝すればよい」
 まっすぐに向き合った男を、オルドレルはしげしげと眺めた。男の体格はおおかたのアンテロパ人より小さく、がっちりとして肩幅が大きかった。瞼の厚い、どちらかと言えば偏平な顔立ちからは、表情を読むのが難しかった。
 「私はオルドレル・カ・ジュレル」
 「エルガイ・カ・ジュレル」
 「……その最後の名が氏族を示すのではないことは知っている。それがカシンでないということは、お前たちは遠くから旅してきたということだな」
 「我らは、クリファの民人に偉人の教えを伝えるため、数十の国を旅してきた者だ」
 「ジュレルの旅人よ、この地の者は土地の名ではなく、自らの血の歴史を名乗るのだ。私はインカケル。スード氏族、カラカム家のインカケルだ」


 旅は、インカケルと名乗ったクリファ人との道連れとなった。
 インカケルは、一族の者たちと六角獣を狩り集める旅に出ていたのだが、妻の出産が近いとの知らせを聞き、今は帰郷の途上にあった。
 「三番目の娘となるはずだ」と彼は角甲虫の上から嬉しげに話した。
 「何故、娘とわかるのだ」という、オルドレルの質問に対して、彼は「妻にはわかる」とだけ答えた。
 人の心を読むという、クリファ人の特別な力によって、妊婦は孕んだ子のことを知ることができるのかも知れない。
 自分たちの心も読まれているかも知れない――そう思うことは、あまり気分のよいものではなかったが、オルドレルは努めてその感情を押し殺そうとした。相手に不快の念を抱けば、それがまた彼に読まれてしまうかも知れない。それに、そういう気持ちはいつしか膨らんで、やがては問題の種となるものである。
 しかし、エルガイはとうとう我慢できなくなった様子で、ある夜の野宿の用意のあと、インカケルに切り出した。
 「カラカムのインカケルよ、クリファ人は言葉を介さず人の心を知るというが、それは本当なのか」
 インカケルはこの問いに少々戸惑った様子だった。彼はしばらくの間沈黙を守り、やがて言った。
 「……人は話をするとき、相手の顔を見るであろう。言葉ばかりでなく、表情や声からも相手の気持ちを推し量り、理解するであろう。我々が相手の魂に触れるのも、相手の表情を見ることと大きな違いはない」
 「では、他人の考えを知ることはできないのか」
 「魂に触れる力は人によって異なる。力の強い者なら魂の奥底を探ることもできるだろう。しかし、理由もなくそんなことをする者はいない」
 「やろうと思えばできる、ということか」
 「それは、他人の幕舎に黙って踏み入るようなものだ。そんなことはするべきではない」
 エルガイはインカケルの解答に満足したようだった。
 オルドレルとエルガイは、二の雪月の半ばにインカケルの村に入った。
 草原のただ中に小さな山々が忽然と現れ、その谷間に村はあった。それは〈月の谷〉と呼ばれていた。
 住民のすべてがインカケルと同じスード氏族に属し、家族ごとに幕舎を立てて暮らしていた。若い男はすべて六角獣狩りの旅に出ていて、家族の家を守るのは女と子供と老人だけだった。
 「女は家のものというしきたりのようですね」
 エルガイが幕舎の外で炊事の仕度をする女たちを見ていった。
 オルドレルは別のことに注意を向けていた。
 アンテロパ諸邦のなかにも、女を家のものとする習慣をもつ国はある。しかし、子供は共同の養育所で育て、自分の家にはおかないのがアンテロパの普通の習慣だった。アンテロパには、子供は共同体のものという考え方がある。しかるに〈月の谷〉では、子供は女と同様、各家に属していて、そこで育てられるのだった。
 インカケルは家の者に命じて、オルドレルたちのための幕舎を建てさせた。それは見る間に形を成していき、あっという間に完成した。
 「偉大な者の教えを伝えたいと言ったな」
 幕舎に荷物を置いたオルドレルたちに、インカケルが言った。
 「〈熱の方位〉の幕舎に行って、マルド家のファンディに会え。彼は一族の長老だ」
 幕舎の外には、幼い少女が立っていた。年のころは10巡歳くらいであろう。
 「我が娘ニンファーが案内する」
 ニンファーは頬に恥かしげな笑みを浮かべたが、物怖じする様子はなく大きな瞳をまっすぐに二人に向けていた。
 「大きな人……とっても強いのね。でも怖くはないわ」
 「よさないか、失礼だぞ」
 少女は父の顔を見て、こくりと頷いた。
 「すまない。この年頃の娘は心の力が強い上に、まだ礼儀をわきまえん」
 「いいんだ、ニンファー」エルガイが少女に微笑みを返した。
 「こっちよ!」
 少女は踊るように駆け出して、オルドレルたちを導いた。
 ファンディの幕舎は村はずれの井戸の近くにあった。
 幕舎に近づくとニンファーは立ち止まり、やや緊張した面持ちで彼らを幕舎のなかに招き入れた。
 「カラカムのニンファーか……」幕舎のなかから皺枯れた声がした。「遠来の客人を案内してきたのだな」
 「オルドレル・カ・ジュレルです。これは、我が従者エルガイ・カ・ジュレル」
 「私はスード氏族、マルド家のファンディである。70巡歳を数えるクランの長老の一人だ……」
 「アンテロパの〈寒の方位〉の果てのジュレル邦より、アトーの教えを告げるためにこの地を目指してやってきました」
 「遠い邦だそうだな……」
 幕舎に入ると、老人は二人を座らせて手ずからお茶を入れた。その黒っぽい液体からは、彼らが今まで味わったことのない香りがした。
 「昨年の二の風月に故郷を旅立ちました」
 「長い旅だ……そのすべての道を歩いてやってきたのか」
 「ときには角甲虫に乗って、また多くの行程を徒歩でやってまいりました」
 「砂漠帯を越えて来たというのは本当か」
 「そうです。カシン大爵の迫害を免れるため、海路は通りませんでした」
 「敵地を避けながら7巡月もの旅を行く――信ずるところを伝えることが、それほどの価値をもつとはな。あの砂漠帯は、スードのいかなる勇者も足を踏み入れぬ死の土地だ。私の知るかぎり、砂漠帯を越えてやってきたのは、過去に一人しかおらぬ。その名をオーハンというアンテロパ人だ」
 オルドレルとエルガイは、思わず顔を見合わせた。それは伝道のためにクリファに入ったとされる、半ば伝説化された先人の名であった。
 「オーハンは遥かな昔にこの地に入り、〈月の谷〉で生涯を終えたとされている」
 「スードの長老よ、彼は我々と同じアトー教徒です。我らは彼の事跡を引き継ぐためにやってきたのです」
 オルドレルは自分が興奮しているのを感じていた。彼は身を乗り出してファンディに問うた。
 「長老よ、教えていただきたい。オーハンの伝えた教えはこの村に生きているのでしょうか。彼の受けた苦難と迫害は報われたのでしょうか」
 「ジュレル人よ、オーハンについては、彼が砂漠帯を越えてこの地にやって来た最初のアンテロパ人であること以外、何も知られていない。彼が自らの奉じる神について我らに何かを教えおこうとしたという言い伝えもない」
 興奮は落胆に変った。
 オーハンはアトーから直接の教えを受けた弟子の一人である。アトーの弟子中、もっとも剛健かつ勇敢で、生涯を伝道の旅に費やしたと言われている。ジュレル全土にアトー教の礎を築いたのち、ジュレル以外のアンテロパ諸邦を迫害に耐えつつ伝道して、やがてクリファに達したとされているが、その最期は知られていなかった。
 オルドレルはオーハンの成功を信じていたかった。
 「……それでは、この地での布教は許していただけぬのですか」
 「許す?」
 「あなた方の古い祈りに我々の新しい祈りを付け加えることを、どうか許していただきたいのです」
 「私にそのような権限はない。〈月の谷〉の誰であろうと、自分の考えを述べ、伝えようとすることを許したり、禁じたりする権限はもたぬ。それが、亡き人々を悼むことを禁じるようなものなら、障害は多かろうが……」
 「アトーの教えは、むしろ亡き人々を悼むことを当然のこととしています」
 「ジュレル人よ、思うところを自由に語るがいい。そのために長い旅をしてきたのであろう。〈月の谷〉の民は、砂漠帯を越えた者の勇気に、その言葉に耳を傾けることで応えるであろう。いずれにせよ、お前たちが我々に害をなす気の微塵もないことは、よくわかった」
 そのときになって、オルドレルはファンディが密かに彼らの心に触れていたことに気づいたのだった。


 ファンディはオルドレルたちの布教に便宜を計ってくれたようだった。
 毎日、夕餉の済む時間になると、女や老人たちが子供を連れて彼の幕舎を訪れた。彼らは幕舎のなかに車座になって座り、オルドレルの説教に耳を傾けた。
 「〈月の谷〉の民人よ、最新の知見によれば、世界とは次のようなものである。
 我らが大地は球形を成しており、太陽の回りを周回しながら暗黒のなかに浮かんでいる。知られるかぎり、太陽の回りには同様な惑星が12個あって、それぞれが海と大地をもち、人々の生きる世界を形作っているものと考えられる。
 その外の世界は、また同様な太陽と惑星の世界であり、その一部はアンテロポリスに訪れる天の商人たちの世界である。
 天の商人は星々の間を駆ける船をもって暗黒を旅するが、その彼らとて遥かな光速の壁の彼方については何の知見ももたない」
 オルドレルの説教は、六角獣を追う暮しのことしか知らない〈月の谷〉の人々に、ある種の感動をもたらすことに成功していた。大いなる未知と新しい知識に圧倒され、オルドレルを見る彼らの目が輝くのを見て、傍らのエルガイは師の力量に改めて尊敬の念を抱いた。
 「太陽の輝き、惑星の運行などは、地の原理、水の原理、火の原理、風の原理に基づいている。
 これらの諸原理はこの世でもっとも大いなるものを動かすが、その実、世界の諸原理中もっとも低次のものに過ぎない。例えば、草木の原理はこれらの上位にある。何故なら、草木は地に生命を育み、水をその身に集めることによって、存在を保つからである。上位の原理は下位の原理をその内に納めるものである。
 それゆえ、草木の原理は水の原理を内含し、虫の原理は草木の原理を内含する。そして、すべての原理の頂点に位置するのが神の原理、すなわち神理である」
 オルドレルは神を人格とみなすことの非を説いた。アンテロパで広く行われている信仰がそれであった。ジュレル邦以外のアンテロパでは、都市や邦ごとに地域の守護神を定めて偶像を作り、それに祈りを捧げている。それらは結局のところ、地域を統べる領主や王の支配に権威を与えるためのものに過ぎない。
 「したがって、神には怒るとか悲しむとかといったことはない。神とは、それらの人間的感情を超越した原理である。それは普遍であり、不変である」
 オルドレルは続いて、人間について話した。
 「虫は虫の原理に生き、草木は草木の原理に生きる。それらの存在を司る原理が変わることはない。ところが、人は大きく異なる。
 我々は道徳を有し、また知識を有することができる。新たに学んだ知識、新たに身につけた行為の規範――それらによって我々は神理に近づくことができる。人は虫のように生きることもできれば、神のように生きることもできる。
 人の原理とは変化の原理である。多様な変化の可能性のなかから、神理に近づく道を見出だすこと。それだけが我々を偉大な者たらしめる」
 オルドレルはしばし沈黙し、話を聞くクリファ人たちをゆっくりと見回した。説教の最後の部分は彼らには難解であったろう。しかし、それはそれでよい。今は彼らに新しい知識と信仰の魅力をアピールすることだ。
 「ジュレル人よ」
 一人の男が質問に立った。
 「人には偉大なる者がある。大いなる勇気、大いなる知恵。これらは人を偉大なものとする。お前の神は、その上にいったい何を付け加えようとするのだ」
 「神理は――」
 オルドレルは慎重に言葉を選んで答えた。
 「道徳と知識とのいっさいを含むのだ。繁栄も衰退も、生も死も。神理はこの世界の理のすべてである。神理は生きるべきときに生きる力を、死すべきときに死する力を与えるであろう」
 オルドレルに質問したクリファ人は、じっと何かを考えている様子だったが、やがて顔を上げ、オルドレルの目をまっすぐに見つめて言った。
 「ジュレル人よ、それを知ることが、本当に人を偉大なものにするのなら、次は我が息子とともに話を聞くこととしよう」
 オルドレルは無言で頷き、エルガイに目をやって自分の説教が成功したことの満足を彼に伝えた。


 次の集会でオルドレルは簡単な典礼を行い、クリファ人たちにアトー教の祈りの形式を伝えた。そのあとは典礼語で書かれたアトーの言葉を読み、その意味を説明した。集会に訪れるクリファ人は、顔ぶれが少しづつ変ったが人数は減らず、布教は順調だった。
 「この集会についての反発はないようです」とエルガイが言った。
 「そうだな。異教の地では、たいてい新しい教えに拒絶反応を示す者があるものだが……」
 オルドレルはその原因を、クリファ人が自身の信仰をもたないためだと考えていた。  いや、クリファ人も祖先の霊に対する信仰をもってはいる。しかし、クリファ人の生活を観察しているうちに、オルドレルは彼らの「信仰」があまりに素朴なものであることを知った。
 幕舎には祭壇もなく、宗教的行為といえば、食事の前の祈りくらいのものであった。
 それどころか、クリファ人は墓所すら持っていなかった。亡くなった者は個々に山に葬られ簡単な木の墓標を立てるが、あとは詣でる者もなく墓標も朽ちるままにされるのだ。
 定められた典礼の形式も、聖典もなく、教義といったものもなかった。彼らの信仰は宗教としての体系を欠いているのだ。
 「この成功をジュレルの伝道長に伝えるすべがないのが残念です」エルガイが言った。
 「うむ……」
 伝道の成功を報告書にして、オルドレルの上司である伝道長に届ければ、それは間違いなく宗師長猊下の耳に達することだろう。そうすれば、たとえオルドレルたちがこの地に朽ち果てようとも、その名は神理の栄光とともに記録される。
 「しかし、望むべくもないことだな……」
 この地とジュレル邦のあいだには、アトー教に敵意を抱く国々が数多く横たわっている。無事に報告書を届ける手段は絶無と言ってよかった。しかし、それ以前に、オルドレルは宗師長の賞賛自体に興味が湧かなかった。
 オルドレルはもともと組織のなかで仕事をするのが苦手だった。教団の僧たちが上司の評価を得るために汲々としているのも、彼には疑問だった。彼が伝道を志願した理由のひとつは、教団の繁雑な人間関係から逃れたかったからである。
 「我らは我らのみで道を歩まねばならぬ。伝道者とはそういうものだ、エルガイよ」
 彼はそう言うと、エルガイを残して幕舎の外に出た。
 村全体を見下ろす丘に登ると、幕舎から炊事の煙が上がるのが見えた。風の音以外、何一つ耳をわずらわせるもののない静けさである。
 この静かな村で、アトー教の典礼が自主的に行われるようになるまでそう時間はかかるまい。彼の持ちこんだ信仰が、この村にゆっくりと根づきつつあることは疑いようがなかった。
 それにしても、あっけない成功であった。
 その成功が、少し前からオルドレルに一つの疑問を抱かせていた。
 疑問とは、凡庸な伝道者に過ぎない自分にできたことを、何故オーハンが失敗したのかということである。
 オーハンはアトーの弟子とされる人々のなかでも、もっとも強力な伝道者であった。アトーと彼の弟子の言行録である『十二伝書』によれば、彼は早い時期から幾度も師の下を離れ、伝道の旅を続けた。その彼の教えがこの最後の伝道地にまったく残っていないのは、いったい何故なのだろう?
 この村にたどり着くのがやっとで、布教を実らせるまでにいたらなかったのだろうか――確かに彼は老いていた。
 いや、それとも――
 彼は〈月の谷〉の静寂の音に耳を傾けた。
 答は、この静けさのなかにあるのかも知れなかった。何千巡年も微動だにしない、単調で力強い静寂、すべてを流れのうちに沈殿させて、ひとときも動きを止めぬ、この土地の時の流れの中に――
 「風が花月の訪れを告げています」
 急に話しかけられて、はっとしたオルドレルが振り向くと、一人の女が立っていた。
 「神理の師よ、お邦でも花月は風が運ぶのですか?」
 髪の結い方が未婚であることを示している。クリファ人には珍しく、ほっそりとした優雅な体格である。彼女の顔には見覚えがあった。
 女は名をパーフェル・カラカム・スードと言った。オルドレルを〈月の谷〉に案内したインカケルの娘で、ニンファーの姉に当たる。集会にはよく出席していて、いつも幕舎の片隅で静かに彼の説教を聞いていた。
 「〈寒の方位〉の果てでは花月は名ばかりで、その季節のジュレルはまだ雪と氷に閉ざされています」
 オルドレルが答えると、パーフェルは大きな瞳を見開いて、彼の顔をまっすぐに見つめた。
 「極に近い邦ですから、雪月は闇が1日の大半を支配しています。ジュレルでは、風ではなく、日ごとに退く闇が花月の訪れを告げるのです」
 「厳しい土地なのですね……。その寒さと戦うのが、ジュレルに生まれた人たちのさだめなのでしょう。それも神理のなせる技なのでしょうか……」
 「自然の厳しさも、それに耐える知恵も神理によるのです」
 「神理の師よ、運命ということについて伺いたくて、機会を待っておりました」
 パーフェルはオルドレルの前に座り、両腕を背中にまわして頭を垂れた。クリファ人が人に敬意を示すときの姿勢である。
 「師よ、私はみなの前で言葉を使えぬ者なのです」
 オルドレルも腰を下ろして、彼女と向かい合った。夕日が娘の俯いた顔を照らしていた。
 「インカケルの娘よ、私に答えられることなら、なんなりと答えましょう」
 「すべての運命が神理の下にあるのなら、人がそれに抵抗することは神理に背くことなのでしょうか。神理が滅びを命じるなら滅びを受け入れ、死を命じるなら死を受け入れるべきなのでしょうか」
 「人に降りかかる不幸の背後にも神理は存在します。それは遍くすべてを統べる原理なのです。その意味では、神理に逆らうことは無意味です。しかし、知恵と勇気をもって災厄を回避できるとしたら、それもまた、神理の故でしょう」
 「……私は結婚もせず、子をなすこともない運命の下に生まれました」
 娘は顔を伏せたまま話していた。言葉は淡々としていたが、深い悲しみが込められているのが感じられた。
 「私の心の力は強すぎるのです。普通の子供は成長するにしたがって、力を抑え心を閉ざしておくことを学びます。私にはそれができません。人の心の声は、私の意思にかかわりなく私の心に入ってきます。そういう者が希にいるのです」
 「ならば、今の私の心の内もわかってしまうのですね……」
 「神理の師よ、今あなたが感じていらっしゃる不快感と同じものを〈月の谷〉の住民も感じるのです」
 オルドレルは、不覚にも湧き上がった醜い情念をパーフェルに悟られて、大いに慌てた。その動揺をまた悟られまいとして、彼の内心はちょっとした恐慌をきたした。
 「すみません、師よ……」
 娘が目を閉じておし黙ったおかげで、オルドレルには落着きを取り戻す時間ができた。
 「私のような者は、心の代りに口を閉ざします」
 パーフェルは彼が平常心を取り戻すと、再びゆっくりと話し始めた。
 「言葉を捨てねば、周囲の人たちの不快な想いを招かずに暮らすことはできません。私は夫となる者もなくこの村に暮らし、やがては僧になるほかはないのです」
 〈月の谷〉に僧がいるとは、初耳であった。オルドレルはそれらしき者を見たことがなかった。
 「〈寒の方位〉に僧たちの集落があります。彼らの方から村に出向くことは少なく、村人は月に一度、そこに食糧を運び、年に一度一族こぞって詣でるのです」
 「そこには、あなたのような――その、力の強すぎる者だけがいるのですね」
 「師よ、僧となる運命を嫌って村を出た者もおりますが、彼らの消息はまったく知られていません。私は――」
 パーフェルはそこで、言葉をとめた。
 彼女の視線は村のはずれを見つめていた。
 「神理の師よ、運命のときが来ました。まさか、こんなに早いとは……。今お話したことは、お忘れください」
 やがて、一人のクリファ人が彼女の名を呼びながらやってきた。ひどく急いでいるようすで、沈黙にもどった彼女の腕をつかむと、引きずるようにして彼女を連れ去った。
 オルドレルは彼らのあとを追った。
 大勢の村人が集まっていた。六角獣狩りに出ていたグループのひとつが戻ったらしく、角甲虫に乗った幾人かの若者が縄に繋がれた六角獣を引いていた。しかし、人々の目は彼らではなく、1頭の角甲虫の上に注がれていた。
 そこには傷ついた若者が乗せられていた。村の若者たちが彼を慎重に降ろし、地面に横たえる。
 若者の衣服の腹の部分に血が黒く固まっていた。意識はなく、肌からは血の気が失せていた。
 「診させてくれ。私には医学の知識がある」オルドレルがそう言って進み出た。
 「アンテロパ人だ。カシンの植民市の者だ」狩りから帰った若者の一人が言った。「焚き火の光が幕舎から漏れたのだろう。光に憑かれた六角獣の群に蹂躙されたのだ。助からないと思われて、仲間に見捨てられたようだ」
 オルドレルは、若者の胸に下げられたカシンの神――ニオドの紋章をかたどった首飾りに気づいた。死にゆく者に仲間が授けたものかも知れない。腰の袋には乾燥豆が入ったままになっているようだった。
 「ジュレル人よ、彼は助かるか」
 腹の傷は、六角獣の前脚の棘に引っかけられたもののようだった。傷は内臓に達しており、流された血の量も多すぎた。
 「今は息がある。しかし、日暮れまではもつまい……」
 「パーフェル!」誰かがインカケルの娘の名を呼んだ。「彼のペルソナを。時間がない」
 「待ってくれ」抗議の声を上げたのは、インカケルだった。
 「我が娘に外の世界の者の魂を負わせるのか。それでは、娘は〈月の谷〉の一族のペルソナを負うことができなくなる」
 「そうだ。それが我らの法だ、インカケル」
 「僧の村に運べば、外の世界の者のペルソナを預かる僧がいよう」
 「それでは間に合わない」
 「しかし――」
 「みすみすペルソナが失われるのを捨て置くことはできぬ」
 そのとき、パーフェルが横たわる若者の前に歩み出た。
 「パーフェル!」
 父の叫びに微笑みを返すと、彼女は死にゆく者の前に額付いた。
 人々の輪が広がった。オルドレルも、そうせねばならない何かを感じて数歩退いた。
 パーフェルは若者の額に自分の額を合わせ、じっと身体の動きをとめた。
 「彼女は何を……」
 「ジュレル人よ」彼の問いに答えたのはインカケルだった。「娘はあの若者の生涯を自分のものとするのだ。歓びも悲しみも、すべてが娘のなかで新しい命を得るのだ。だが、それと引き換えに娘はこの村を去らなければならない。ペルソナを負うたものは、僧になるのだ」
 カシンの若者は、それから間もなく息をひきとった。


 数日後、パーフェル・カラカム・スードは僧の村のある〈寒の方位〉へと旅立っていった。
 オルドレルはあの日と同じ丘で彼女を見送った。
 「そんなことがあったのですか……」
 師の伴をして丘に立っていたエルガイは、パーフェルの事を聞くと溜息まじりに言った。
 「この地にも僧という身分があるのですね……。しかし、彼らは僧たちと我々との関係を気にしてはいないようだ。我々と僧たちとを、ひき較べているのでしょうか」
 「わからぬ……僧とはいっても、我々のような者とは異なるのかも知れぬ。僧であることの意味はさまざまだからな」
 アトー教では、よく教義を学んで、神理に通じた人を指して僧と言う。ジュレル以外のアンテロパでは一般に、僧の概念の中心は儀式の主催者たる資格にあると考えられている。
 「長老ファンディは、僧とは祭壇であり、神殿なのだと言っていた」
 「ファンディに、僧のことを訊ねたのですか」
 「僧とは魂の記録者なのだそうだ。彼らは、死者の生涯をその胸に永遠に刻みつけるという」
 「死者の言葉を伝えるという、ミニリスク邦の巫女たちのようですね」
 「あの巫女たちは、死者の声を語る報酬に、3メガスの金または8メガスの玉を受け取ると聞いている。ここの僧たちも同じ輩だと思うか?」
 「それは何とも言えません」
 オルドレルはパーフェルの美しい瞳を思い起していた。  あの娘は神理を学ぼうとしていたが、その一方で自分では望まない古い信仰上の運命を負っていた。結局、彼女はすべてを捨てて、古い信仰に自分を委ねた。その決意の重さが、オルドレルの『僧』への関心を掻き立てていた。
 「三の花月に、彼らは僧の村へ出向くそうだ。私はそれに同行しようと思う」
 「僧に会われるのですか。しかし、この村の者とともに行けば、僧たちの儀式に加わることになります」
 「長老ファンディによれば、僧と会うためには、儀式を経ることが必要なのだそうだ」
 「師よ」エルガイはオルドレルに向き直って、言った。「それは背教の恐れのある行為です。異教の儀式には触れるべきではありません」
 「私もその恐れは感じている」
 オルドレルはエルガイの抗議を予想していたかのように落ち着いていた。
 「だが、恐れていては何もわかるまい。第一、それが神理に反するような儀式なのかどうかも、わからないではないか」
 「しかし――」
 「これは考えた末に決めたことだ。ファンディは巡礼の旅への参加を認めてくれた。私は行くつもりだ。背教を恐れるなら、同行しなくてもよい」
 エルガイはさらに抗議したが、無駄であった。
 出立の日が近づくにつれ、エルガイは旅のことを口にしなくなった。オルドレルには、エルガイの胸の内の葛藤が手にとるようにわかった。オルドレルの巡礼の旅が避けられない事態となった今、彼は背教への恐れと伝道者を警護する義務との板挟みになっていた。オルドレルは、エルガイの苦しみをとり除いてやりたかったが、その方法は見当もつかなかった。
 三の花月は、その名のように花咲き乱れる季節だった。この月までに六角獣狩りに出ていた若者たちはすべて帰還し、各家はそれぞれ巡礼の仕度に忙しかった。
 「用意はいいか、ジュレル人」
 ある日の朝、オルドレルたちの幕舎の外に威勢のいい声が響いた。オルドレルが幕舎を出ると、壮健な体格の男が立っていた。
 「私はマルド家のシュレージだ。我が長老ファンディの依頼により、巡礼の旅にジュレル人を案内する」
 オルドレルは小さな荷物を肩に、幕舎を出た。
 マルド家の人々が旅の準備をして集まっている幕舎の前に、エルガイの逞しい肩が見えた。彼はオルドレルの姿を見ると言った。
 「師よ、同行いたします。師を一人で行かせることは、師の守り手たる私にとり背教に等しい行為と言えましょう」
 シュレージの合図で、人々が一斉に歩き始めた。旅には角甲虫を使わない慣わしである。角甲虫は荷物を運ぶためだけに用いられていた。
 僧の村までは二日の行程だった。
 〈寒の方位〉の山脈の谷間に入ると、草木は眩しいばかりに花を咲かせていた。人々は休息する度に大地に接吻し、樹木に額を触れて祈りを捧げた。ここはすでに彼らの聖地であるようだった。
 マルドのシュレージは常に一行の先頭に立ち、彼の後には今年初めて巡礼に参加する子供たちが従っていた。
 「あれはバシカ家の祠だ」
 シュレージに言われて、オルドレルは鬱蒼とした木々の小枝に隠された洞窟の入口に初めて気づいた。
 「あそこにバシカの一族の魂を預かる僧がいる。バシカの家の血統は絶えてしまい、今はあの祠に詣でる者はない」
 「それでは、我々は僧の村に入ったのだな」
 シュレージはオルドレルに頷いた。
 一行はさらに歩み、シュレージは湧き水の流れる岩壁に穿たれた洞窟の前で止まった。
 「マルドの祠だ」
 老いた女たちが中心になって野宿の準備が始まった。男たちは幕舎を組み立て、若い妻たちが炊事にとりかかった。子供たちも大人を手伝った。
 「僧には、すぐに会わぬのか」
 オルドレルはシュレージに訊ねた。
 「会いに行かずとも、僧は我々の訪れを知っている。ジュレル人よ、彼らは草木の心の揺らめきすら感じとるのだ」
 その夜、人々はシュレージを祭主として、ひとつの儀式を始めた。
 車座になった人々はともに謡を歌った。
 抑揚の少ない、詩の朗読のような謡であった。全員の合唱が一定の旋律を繰り返し、人々のうちの一人が、そのなかで独立した旋律の謡を順に歌っていった。単純だが、心に響くもののある多重唱だった
 独唱者の言葉はオルドレルの理解できないもので、おそらくこのような儀式にのみ用いられる古代語なのだろう。それは、アンテロパで広く使用され、アトー教徒も儀式に用いる典礼語ともまったく異なっていた。
 独唱が全員を三順すると、三度歌い終えた者は、立ち上がって順番に僧の祠へと向かった。
 「行くべきではありません」エルガイがオルドレルの肩に手をかけて言った。
 オルドレルの心はすでに決まっていた。彼はエルガイの手をそっと払うと、最後の巡礼者の後に続いて立った。
 「待て、ジュレル人」
 シュレージだった。
 「外の世界の者には、それにふさわしい祠がある」
 「私は僧に会いたい」
 「我々はその願いをかなえるために、お前たちをここに導いたのだ」
 シュレージはオルドレルの手をとり、もう一方の手で闇の奥を指し示した。
 「私に従え」
 オルドレルはシュレージの後について足を進めた。シュレージの歩くのは速く、とてもまっ暗闇のなかを歩いているとは思えなかった。
 やがて、梢が途絶え、月明りに照らされた裸の地面が現れた。
 岩のころがる地肌が、月光を映してうすら青く輝いている。それに連なって、草木を欠いた岩壁がオルドレルの前に立ちはだかっていた。
 壁の中央に、森と同じ漆黒の闇をたたえた洞穴があった。
 「僧の祠だ」シュレージが言った。「ここで、過ぎ去りし魂を謡うのだ。そうすれば、僧はお前たちを受け入れる」
 「マルドのシュレージよ、我々は謡を知らぬ」
 「僧が知っている」
 シュレージはそれだけ言うと、彼らを残し、森の向こうの一族の祠に戻っていった。
 「祈るのだ、エルガイ」オルドレルがしばらく考えた末に言った。
 「いけません。異教の僧侶に祈るのは背教の行為です」
 「私とて、そんなことは考えていない。神理に祈るのだ。我々の祈りと彼らの祈りが矛盾するものでないのなら、僧は我らを受け入れてくれよう」
 「ですが――」
 オルドレルは膝を地に下ろし、典礼語で綴られたアトーの事跡を暗唱した。
 「師よ、これは宗師長猊下が我々に下された典礼権限を逸脱した行為です」
 オルドレルはエルガイの抗議を無視し、祈りに全神経を集中した。
 オルドレルは自分の内なる祈りの声が、しだいに大きくなっていくのを感じていた。伝道院での修行以来の、しばらくぶりの体験だった。
 祈りに重なる声があった。
 それは流れるような旋律をともないつつ、彼の典礼語によりそった。
 ――来れよ。
 祈りの間に、重く響く声がした。
 ――汝の縁の者、我が内にあり。
 オルドレルは目を開け、立ち上がった。
 洞窟の闇の奥に、さっきまで見えなかった人影があった。
 ――来れよ。
 オルドレルが洞窟に入ると、人影は光を放った。
 古いアンテロパの装束の老人が、そこに立っていた。
 彼はゆっくりとした口調で、オルドレルに話しかけた。
 《300巡年のあいだ、私を訪ねる者はなかった。異郷に葬られた者の運命だ。だが、それを悲しいと思ったことはない……》
 「〈月の谷〉の僧侶よ、私はアンテロパのジュレル邦からの伝道者、オルドレルである」
 《知っている。だが、私は僧ではない。私もまたジュレルよりの伝道者だった。今は死して、〈月の谷〉の僧の身体にとどめられたペルソナの記憶に過ぎない》
 声は彼の心の内に直接入り込んできた。
 「あなたは……」
 《私は旅を宿命として生きた者である。失われかけた言葉を人の世に伝え残そうとした者である》
 「あなたはオーハン……」
 《その名を呼ぶ者と出会うのも300巡年ぶりだ》
 オルドレルの胸は激しく高鳴った。
 「ああ、オーハンよ、この奇跡を宗師長猊下に、いかに伝えればよいのでしょう」
 《オルドレルよ、この地に奇跡などない。神理にしたがった生活があるだけだ……》
 「お聞かせください。アトーの言葉を、伝道の歴史を。私はあなたの事跡を継ぐ者です」
 《私はアトーの死後、モスコを中心とするアトーの弟子たちの一派と争い、アンテロパをさすらった10人の神理の徒の一人である》
 オーハンの言葉は、オルドレルには意外なものだった。
 「オーハンよ、何をおっしゃるのですか。アトーの神聖な弟子たちに争いがあったと――」
 《偶像崇拝の輩の迫害と、モスコの手の者の追跡を逃れ、砂漠帯を越えてクリファに入ったときには、私一人になっていた。最後に残っていた仲間も砂漠で命を落としたのだ》
 「オーハンよ、驚きに言葉もありません。あなたはご自分を背教者だとおっしゃるのですか」
 《アトーの後を継いだ者たちの歴史を、私は知らなかった。オルドレルよ、お前の記憶が今、私にそれを教えてくれる。モスコは初代宗師長となり、私をアトーの伝道者として記録したのだな》
 「アトー教徒は、みなそう信じております。あなたはすべての伝道者の希望です」
 《宗師長、宣教官、伝道長か……オルドレルよ、そのような教団の権威こそ、偶像崇拝以上にアトーが嫌ったところだ。高位の者ほど神理をよく体得し、神理の恩寵に恵まれるとでも言いたいのか》
 「何をおっしゃりたいのです、オーハン」
 《神理を語る者が階層組織を設け、自身に神聖な位を与えるのならば、偶像崇拝の輩と変わるところがないではないか。いいかオルドレル、伝道者は伝道に従事するということ以外、普通の人々となんら変わるところはないのだ。伝道の行為は必ずしも、伝道者が神理に近づいたことを意味しない》
 「宗師長猊下の権威を否定せよと……」
 《宗教上の位階を最初に激しく非難したのはアトーだった。モスコらは、布教の必要のため、強力な教団組織を希望していたが、アトーは、自分の生きている間はそれを認めようとはしなかった》
 「オーハンよ、考える時間をください……。私は自分のすべきことがわからなくなりました……」
 《考えたければ、考えるがいい。私はお前に何も要求していない》
 オルドレルの脳裏にクリファの草原が広がった。襤褸の旅衣をまとったオーハンが遥かな道に立っていた。
 〈月の谷〉に入ったオーハンは、アトーの教えを広めることを試みた。しかし、彼はほどなくその行為の無意味さに気づいた。
 クリファ人は偶像を崇めず、僧を神秘の高みに祭ることもしていなかった。彼らは六角獣を追うだけの単調な時間のなかに生涯を送りながら、地を知り、天を知ることを楽しんでいた。アトーの説いた生活が、アトーなくしてそこに存在していた。
 オーハンはアンテロパの知識を携えて来た賓客として尊敬され、この地で生涯を閉じた。
 オルドレルの心中に展開されたオーハンの生涯の光景に、影が踊りこんだのはそのときだった。
 「幻影よ、去れ!!」
 「エルガイ!」
 オルドレルが目を開くと、エルガイが抜き身の剣をきらめかせて僧とオルドレルの間に立っていた。
 「異教の魔術よ、我が剣を受けよ」
 オルドレルはその肩に手を伸ばそうとしたが、間に合わなかった。エルガイの剣は僧の胸を斜めに切り裂き、オルドレルは数百のペルソナの叫びとともに、僧の心臓から血が吹き上がるのを呆然として見つめるしかなかった。


 〈月の谷〉の幕舎に幽閉されて、オルドレルとエルガイは裁きの結果を待っていた。聞けば、長老たちは彼らの処置を巡って、もう三日も議論を闘わせているという。
 「私は父に進言したのだ」
 監視役の若者が言った。彼はマルド家のシュレージの息子で、名をアシュカルと言った。
 「ジュレル人を僧に会わせるべきではない、ジュレル人の信仰は堅く、彼らは目にするものを認めぬかも知れぬと」
 監視役のうち一人は必ず幕舎のなかにあって、彼らとともに起居していた。
 「聡い若者よ、長老らは私の罪を許すだろうか……」
 エルガイは、あの日以来視線を地に落としたままだった。彼は誰の目もまっすぐ見つめようとしなかった。
 「あれは私の罪である。せめて我が師の命は助けてほしいのだ……」
 「ジュレル人よ、何故そんなことを考えるのだ。すでに一人の命が失われた。ことを片付けるために、もう一人の命を奪う必要がどこにある」
 「では何故、我が師を私とともに監禁するのだ」
 「長老たちは僧の死の責任を取るべき者を決めあぐねている」
 何度も繰り返されたやりとりだった。エルガイは、オルドレルが処刑されるのではないかという不安をどうしても拭い去れずにいた。
 「今日には審判が下されるだろう。私はそろそろ長老たちの使者を迎える準備をしなければならない」
 アシュカルはそう言って幕舎を出ていった。
 エルガイは二人きりになると、オルドレルの前に額付いた。
 「我が師よ、もしあなたの命が危ういときは、私が今までに受けた勲にかけて、あなたをお守りする覚悟です。我が師よ、私もあの幻を見ました。あれは信仰への挑戦です。神理への誓いを思い出してください。どうか、信仰を取り戻してください」
 オルドレルは無言だった。
 外に足音が響いた。
 幕舎の入口が両側から掲げ上げられると、三人の老人が立っていた。
 「ジュレル人よ、私はミリザン家のハントルである。裁きは下った」
 中央に立った老人が言った。
 「ジュレルのエルガイは、〈月の谷〉から追放され、〈月の谷〉を含む三つのスード氏族の居住地への立入りを永遠に禁じられることとする。マルド家のファンディは本人の申し出により、1巡年の間心と言葉を閉ざす罰を自らに課す。以上だ」
 老人たちは言い終えるとただちに踵を返し、幕舎を去ろうとした。
 「待ってください。我が師オルドレルは――」
 エルガイの問いに、アシュカルが振り向いた。
 「彼に問うべき罪はない。それが長老たちの結論だ。お前はこの地を立ち去れ」
 アシュカルはそう言い残すと他の監視役の若者たちとともに、幕舎を去った。
 「いくがいい、エルガイ……」
 「師よ!」
 オルドレルの声に、今度はエルガイが振り向いた。
 「ジュレルに戻るがいい。そして、宗師長猊下と伝道長に、ここであったことをありのままに伝えるがいい……」
 「我が師よ、私をお見捨てになるのですか」
 エルガイの目に涙が溢れた。
 「……私はもはやお前の師ではない。私の信仰の旅路は無に帰したのだ。私はこの地で自分の信仰を再び一から求めるつもりだ」
 「師よ、いったい何巡年をともに旅したことでしょう。悲しみと苦しみをともにした日々を――私は……私は……」
 オルドレルは立ち上がり、エルガイの肩に手を触れると、そのまま幕舎の外に出た。
 丘に登ると、いつもと変わらぬ風景が広がっていた。自分たちの裁きの一件など、ここの人々の生活にはなんら影響を及ぼさないかのようだった。
 伝道長は自分をどう記録するだろうか、とオルドレルは考えた。
 宣教官に報告し、背教者としてオルドレルに破門を宣告するだろうか、それともオーハンのときのように、事実を無視して彼の名を伝道者の伝説に付け加えるだろうか。いずれにしても、今の自分の在り様を正しく伝えることにはなるまい。
 オルドレルは、ジュレルで過ごした信仰の日々を虚しく思った。
 これからの日々はどうだろうか? 自分は今一度正しく神理への道を歩めるだろうか。
 オルドレルは天を見上げて思った。
 すべては自分しだいなのだ。もはや、伝道院も宗師長も頼りにはできない。神理への道は、彼自身の捧げる遥かな祈りによってしか拓かれることはないであろう。アトーの言うように、我が道は我が歩むところに拓くほかはないのだ。
 そして、オルドレルの魂は、おそらく僧となったカラカムのパーフェルが記録することになるであろう。
 彼の伝道と求道の足跡とともに。


COPY RIGHT:六高寺 弦 ROKKOJI Gen
E-MAIL ADRRESS:rkj@ezoya.co.jp

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