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 父の死は、私にふたつの作品を書かせた。
 ひとつは公募小説の応募作となって商業誌に掲載され、もうひとつの作品は同人誌『せる』に掲載された。
 商業誌の掲載作では、近未来の末期医療現場を舞台にして、死と向かい合う主人公を描いた。
 一方、この作品の方は、私の父の死をめぐる状況をかなり忠実に映している。主人公は、人が生まれつき持っていながら文明に奪い去られてしまうと私が信じている感性(やや小説的に誇張されてはいるが)によって、父親の死を乗り越えていく。
 私は、一方の作品では死と対決しようとし、一方の作品では身近な死の体験についての癒しを求めていたようだ。私にとって、そういう作品を書くことが、父の死を乗り越えるのに必要なことだったのだろう。


風の音のアリア

 その日、目を覚ますと、開け放たれたままの窓から初夏にしては冷たすぎる風が部屋に流れこんでいた。梅雨のさなかの暗い空からときおり滴る雨粒。
 雨の日には姿を見せなかった小鳥が、今日は窓辺にとまっている。
 「どうしたの?」
 小鳥は応えない。
 わたしが窓に近寄ると、小鳥は逃げるように飛び去った。
 「待って」
 燐家の寺院の木々がにわかに風を孕んでざわめく。激しく、やがて密かに。その木々の上の空で、さっきの小鳥がひとしきり大きく鳴いた。
 ――みんな、わたしになにかを隠してる。
 「どうしたの、みんな」
 カタリと音がして、ドアが開いた。家にはいないはずの叔母の顔が覗いた。
 「沙耶ちゃん、起きてたの」
 驚いた顔のわたしに叔母はやさしく言った。
 「びっくりしないでね、沙耶ちゃん。おとうさん、亡くなったのよ」
 わたしはなにも言わずに、首を傾げて叔母の顔を覗いていた。戸棚に忘れられた人形みたいに。
 「今朝の6時だったの。夜中に病院のおかあさんから電話があってね。お兄さん、病院にいってるわ。沙耶ちゃんもすぐ病院にいかなくちゃね」
 「おとうさん、死んだの?」
 叔母は、やっとそれだけ言ったわたしをそっと抱きしめた。  「元気出さなくちゃだめよ。さ、支度をしてね。学校の電話番号だけ、教えてちょうだい。叔母さん、電話しておくからね」
 わたしから離れた叔母の目に涙が光っていた。
 「タクシーで行くのよ」
 ま新しい中学校の制服で家の玄関を出る。父が建て、30年間住んだ家だった。家の建物に連なるお寺の石塀から突き出た欅の木がわたしに挨拶を送った。
 「あなたも悲しいの?」
 欅の木は頷くように梢を揺らした。
 「おとうさん、あなたが好きだったわ」
 父はナースセンターの隣の病室のベッドに横たわっていた。
 母は枕辺で肩を落とし、兄はベッドの周囲を放心したように歩き回っていた。
 「沙耶ちゃん、来たの」
 母の身体はいつもよりふたまわりも小さく見えた。
 「お顔、見てあげて」
 母が父の顔にかけられた白い布をとった。
 父のようでいて父には見えない顔がそこにあった。わたしは父を感じようと、懸命にベッドの周囲を心でまさぐった。
 横たわる身体の胸の深いところに、それはあった。すでに生への執着は消えていた。わたしが父にそっと触れると、それは微かに明るさをまして、わたしに最期の挨拶を送った。
 「とうさん……」
 すすり泣く声が聞こえた。見ると、兄が壁に向かって泣いていた。すすり泣きはすぐに号泣に変わり、兄は逃げるようにして病室を出ていった。
 十五歳も年上の兄。泣くのを見るのは初めてのことだった。
 気がつくと、わたしの目からも涙が流れていた。
 「おとうさん、癌だったのよ。教えてあげなくて、ごめんね」
 ハンカチで目頭を抑えながら、母が言った。
 告別式と友引が重ならないように、通夜は翌日に行うことになった。
 泣くばかりの母に代わって、兄と叔母が親戚への連絡や葬儀の準備に追われていた。
 「かあさん、どうする」
 兄が母に訊ねた。
 「兄貴、連絡するかい」
 「よしましょう。とうさん、自分に何かあっても、呼ぶなって言ってたんだから」
 わたしには、もうひとり兄がいる。
 父の仕事の跡を継ぎながら父と諍いし、家を出てしまった兄だった。
 「でも、長男なんでしょう」
 横で聞いていた叔母が口を挟んだ。
 「死んだら仏様なんだから、もういいじゃない」
 「あの人、自分が癌だとは教えられていなかったけど、うすうす感じてたらしいの。お葬式に使う自分の写真から、お願いする葬儀屋さんのことまで言い遺して逝ったのよ。わたし、あの人の思ってた通りのお葬式にしてあげたいの」
 「わかった、かあさん」
 兄はなにか堅く決意するように、断固とした調子で言った。
 「沙耶ちゃん、煙草、買ってきてくれないか」
 兄に小銭を渡されたわたしは、梅雨の小雨のぱらつく街を傘をさして歩いた。
 父のいない街。商店街の喧騒と、小雨の降る子どもたちの姿のない公園。いつもと同じ風景のはずなのに、街の色がかわって見えた。
 わたしのまわりの風だけが、わたしの哀しみを知り、わたしを慰めようとする。
 わたしは傘をさしたまま公園のベンチにすわり、風の音に耳を傾けた。
 前のベンチには、若い母親が乳母車のなかを覗きこんで、泣いている子どもをあやしている。
  ―泣かないで……。
 わたしは、その子に心で話しかけた。
  ―あなたが泣くと、おかあさんだって哀しいのよ。
 子どもに泣きやむようすはなかった。
 わたしをとりまく緩やかな風は、やがてわたしの心に一つの旋律を奏で始めた。
 わたしの好きな曲。
 六月の風の奏でるG線上のアリア。
 風に応えて、公園の大きなプラタナスが梢を鳴らし、この季節には散るはずのない葉を風の舞いに乗せた。それは空に大きな弧を描いてわたしの膝の上をかすめ、もう一度舞い上がると、乳母車の子どもの上に落ちた。
 見ると、その子はすっかり泣きやんでいた。
 子どもにはわかるのだ。
 風の調べ。小鳥たちの声。木々の物語るいにしえの知恵。
 どんな大人にも、子どもだったころには聞こえたはずの森の言魂。
 物心つくころ――人がそう言われる成長期に入ると、風の声が聞こえなくなるのはなぜなんだろう。そのころを過ぎると、みんな、風の声が聞こえなくなるばかりか、それが聞こえていたことすら忘れてしまう。まるでシテの河を渡るかのように……。
 わたしには今でも風の声が聞こえる。
 なぜ、中学生になっても、わたしに風の声が聞こえるのかは、わからない。わたしの心は乳母車の子と同じに幼いままなのかも知れない。
 「森川!」
 名前を呼ばれて顔を上げると、詰め襟の学生服を着た男の子がふたり、立っていた。
 「高田君……」
 「森川、学校サボってんのか」
 言ったのは高田君じゃなくて、隣のクラスの小川という子のほうだった。
 「もう、学校終わりなの」
 「今日は土曜だぜ。バーカ」
 「森川、家にいなくていいのか」
 高田君が近よって、ベンチの横にすわった。
 「なんだよ。おまえら、そういう仲なのかよ」
 「黙れよ! 森川んち、とうさんが死んだんだ」
 高田君が急に怒鳴ったので、小川君はびっくりして黙ってしまった。
 「今日、先生から聞いたんだ。元気だせよ」
 「うん……」
 「前川先生、お葬式に行くって言ってた。みんなも行くよ」
 「ごめん……おれ、知らなかったんだ」
 小川君がぺこりと頭を下げた。
 「じゃあな。ほんとに元気だせよ」
 ふたりはわたしをベンチに残して去った。
 雨が大粒に変わり、風のアリアに新しいリズムを加える。乳母車は母親が押して公園を出るところだった。
 わたしは高田君がずっと前におとうさんを亡くしていることを思い出した。勉強も運動もよくできるのに、ちょっと不良っぽい感じの子で、あんなやさしいところがあるなんて思いもしなかった。
 そう思った瞬間、風がやさしくわたしの頬を撫でたような気がした。
 通夜の夜。
 父の棺の前に築かれた祭壇の前にすわってお経を聞いているわたし。
 引戸の開け放たれた本堂から、梅雨の晴れ間の月に照らされた木々の枝々が、しっとりとした緑を光らせていた。
 寺院の地所を借りて家を建て、寺にもつくした父だった。ときおり窓から庭を臨み、移り変わる季節や鳥たちが庭木に巣を作るのを楽しんでいた父。
 木々は、今葬られようとしている人を知っている。
 梢は揺れて哀しみの輪舞曲を鳴らし、小鳥たちが木陰に隠れて葬儀を見まもっていた。
 人は最期には森の言魂に見送られて逝くものなのだろう。きっと、死の床にあった父にも、風の声が聞こえたに違いない。
 「かあさん、兄貴が来ている」
 焼香の列が絶え、本堂に酒席の用意がされているとき、兄が母に囁いた。
 家を出た一番上の兄が末席に腰を下ろしているのに、わたしは初めて気づいた。
 「帰ってもらうか、かあさん。おれが帰るように言ってきてやる」
 「やめましょう」
 母の声は消え入るようだった。
 「ここでけんかするわけにはいかないでしょう」
 「かまわんでおけ」
 いつの間にか傍らに叔父がやってきていた。
 「みんなの前でことを荒立てれば、英彦、おまえが悪者にされるぞ」
 兄は黙りこくったままだったが、母と叔父の意見を受け入れたようだった。
 でも、わたしは感じていた。
 怒りが兄の胸を焦がしている。
 それが死んだ父への想いと重なり、哀しみが満たされない叫びとなって兄の心を満たしていた。
 ――なぜ、生きているうちに、とうさんに謝らなかったんだ。
 2年も父の前に姿を現さず、父に許しを乞うこともなかった上の兄が、死んで口のきけなくなった父の前に現れた。
 父が不治の病にかかり、とうとう死んでしまうのを近くで見まもって来た下の兄には、許せない行いだった。
 妹のわたしが怒ったところを見たことがないような温和な性格の兄である。父と上の兄の諍いも、黙って見まもるしかなかった兄だった。
 その兄が怒っている。
 父のために父の怒りまで自分が成り代わって果たさねばならない。兄はそう堅く心に誓ってるようだった。
 そんな兄の怒りが、わたしには痛々しかった。
 「沙耶ちゃん、もう泣かないでね。今日はお客さんがきているんだから」
 叔母のひとりがわたしに言った。
 わたしはいつの間にか、また涙を流していたらしい。
 翌日のお葬式の父との最後の別れのとき、母はとうとう父の顔を見なかった。みんなが父を見送るなか、母だけが父の棺に背を向けたまま泣いていた。


 「沙耶ちゃん、買物を手伝ってくれないかな。冷蔵庫、空っぽなんだ。まだ、スーパー開いてる時間だろ」
 お葬式の次の日の晩、わたしは兄と連れだって夜の街に出た。父の病気のために、家族が家を空けることのないようにしていたので、兄と歩くのは久しぶりのことだった。
 「とうさんのことじゃ、かあさんに苦労をかけ過ぎた。これからは、少しは楽をさせてあげなきゃ」
 「うん」
 「早く、とうさんのいないのに慣れなくちゃいけないな……」
 「うん」
 また、風の声が聞こえてきた。兄には聞こえない風の歌。
 夜の街の風の歌は、人々の疲れをいやすかのような、やさしく暖かい子守歌だった。
 兄は歩いているあいだにも、いろいろなことを考えているようだった。上の兄のこと。父から引き継いだ仕事のこと。これからは母とわたしを自分が守らなければならないということ。
 「沙耶ちゃん、おれ、嫁さんもらおうと思ってるんだ」
 兄が突然そんなことを言ったので、わたしは少し驚いた。
 「とうさんはおれが独り者でいるのを、最期まで心配していた。孫の顔も見せないで、親不孝しちゃったよ」
 「兄さん、誰か好きな人がいるの?」
 「ああ。でも、独りって気楽だものな。なかなかふんぎりがつかなかった。とうさんが死んで、やっとその気になったよ。家族を増やさなきゃね」
 「兄さん、わたし、兄さんの好きな人なら、好きになれると思う」
 わたしもいつかは、兄のようにたくさんのことを考えねばならなくなるのだろう。
 「あ、風鈴」
 買物を終えて家の近くまでもどったとき、昨日お葬式をした隣のお寺から、かすかに鈴のような音が聞こえてきた。
 「昨日は聞こえてなかったな」と兄が言った。
 「あれ……とうさんかも知れない」
 言ってしまってから、少し後悔した。
 「鋳物の風鈴の音だね」
 へんなことを言って、兄に叱られると思ったのに、兄は平静だった。
 「とうさん、なにか言いたいのかな……」
 さっきまでやんでいた梅雨の雨が霞が降りるようにして、また降ってきた。
 家の玄関には知らない靴がおいてあった。
 「誰か、お客さんかな」と兄が言った。
 「沙耶ちゃん、お友だちがきてるわよ」
 母は居間でお茶を飲みながら、お客さんと話していた。その傍らに学生服姿の男の子が礼儀正しくすわっている。
 高田君だった。
 「こんばんわ」
 高田君が兄に挨拶した。
 母と話していたのは、高田君のおかあさんだった。母と高田君のおかあさんは友だちどうしだった。
 「敏季君、退屈でしょう。沙耶の部屋に行ってなさいよ。沙耶ちゃん、ジュースでも出してあげて」
 私の部屋の窓を開けると、雨はすっかり本降りになっていて、お寺の瓦を打つ雨粒の音が心地好かった。わたしは勉強机の椅子にすわり、高田君はわたしのベッドにすわった。
 「きれいに片付いてるな。おれなんて、かあさんに叱られてばっかりだ」
 「わたしだってときどき怒られるのよ」
 「おまえ、明日学校来るのか」
 「うん」
 「元気だせよ。おれなんか、小学校に入ったばっかりでとうさん亡くしたんだからな」
 「うん」
 「とうさんがいなくなると、かあさんがたいへんになるんだ。おまえには兄さんもいるんだから、おかあさんを手伝ってあげなきゃ」
 なんだか、叔父や叔母のようなことを言う高田君だった。
 「これ」
 高田君はポケットから折りたたんだレポート用紙を取り出して、わたしに差し出した。几帳面だが男の子らしい字で書かれた英語と数学のノートだった。
 「学校で書いたのを家で写したんだ。だから返さなくてもいい」
 「ありがとう……」
 「少しは笑えよ。すごいしかめっつらだぜ。森川らしくないよ」
 自分がそんな顔をしていたことに気づかなかったわたしは、少し恥ずかしくなって窓に向かって机に頬杖をついた。
 「へえ、お寺が見えるんだ」
 高田君も立って、窓の外を見た。
 さっきの風鈴がまだ聞こえている。あれはお寺の軒に下げられているらしい。
 「聞こえる?」
 「なにが?」
 「風鈴」
 「うん」
 そのとき、わたしは風鈴の音に重なっていた風の声が聞こえないことに、初めて気づいた。
 雨の音はただの雨の音。
 風の音はただの風の音。
 どこへいってしまったんだろう。こんなときにわたしを残して。
 「泣くなよ」
 「え?」
 「おまえらしくないよ……泣くなよ」
 「ごめん」
 「あやまることはないよ」
 風の声が聞こえない。梢の音もわたしをよそに、ただざわめくだけ。
 次の日、わたしは五日ぶりに学校に行った。
 「沙耶ちゃん」
 玄関を出ようとするわたしに母が声をかけた。
 「おとうさんのことだけど、亡くなるときに病院に呼ばなくてごめんね。英ちゃん、沙耶ちゃんも連れてくるって言ったんだけど、おとうさんの死ぬとこなんて、沙耶ちゃんに見せたくなかったの」
 「いいのよ、かあさん」
 母はまた、目頭を拭いていた。
 「もう、いいの」
 母には、わたしと父が最期の挨拶を交わしたことなどわかるはずもなかった。
 学校への道すがら、やっぱり風の声は聞こえなかった。石塀から突き出た欅の梢も、わたしになにも語りかけてこない。わたしなんていないのも同じと言いたげに。
 どんな人も起ることがやってきたことに、わたしは気づいていた。
 やがて、風の声が聞こえないことをなんとも思わなくなり、ついにはそんなものが聞こえていたことさえ忘れてしまう ―わたしもそうなってしまうのだろうか。
 学校では、わたしに同情してか、いつものように話しかけてくれる友だちはひとりもいなかった。悪意はないとわかっていても、なんだか居心地が悪かった。
 授業が終わると、わたしはいつもいっしょに帰る友だちを避けて、さっさと校門を出た。
 校舎の銀杏の木もやっぱりわたしになにも語りかけてくれなかった。わたしをとりまくすべてのことが、すっかり変わってしまったみたいに思えた。
 「森川!」
 ふりかえると、男の子がわたしの後を傘もささずに走ってやってくる。
 「なんだよ。さっさと帰っちゃって」
 高田君だった。
 「元気出せって言っただろ」
 「うん」
 街路樹の続いている道だった。歩いているのは、わたしと高田君だけ。わたしたちは傘を並べて、しばらくなにも話さずに歩いた。
 「……やっぱり無理だよな」
 「なにが?」
 「まだ、森川のとうさん、死んでから6日目だもんな……鞄、よこせよ」
 「どうして?」
 「いいから」
 自分の傘をたたむと、高田君は強引にわたしの鞄を手にとった。
 「濡れちゃうじゃない」
 「たいした雨じゃないよ」
 わたしをいたわっているつもりなのだろう。女の子を慰めるのに、鞄をもってあげるなんて変だけど、わたしはうれしかった。
 そのとき、プラタナスの街路樹の梢が風を孕んで揺れた。
 風の声だ。
 やさしく、ゆるやかに、風はひとつの音楽を奏で始めた。
 わたしの好きなG線上のアリア。
 もう、聞くことはないと思っていた六月の風のアリア。
 でも、それが風の声の別れの挨拶であることを、わたしは知っていた。
 わたしの長かった風の季節が去り、風の声の記憶が消えてしまっても、このアリアだけは忘れないでいられることも。
 高田君はわたしの家まで鞄をもったまま、ついてきてくれた。
 「森川」
 「なに?」
 「おまえんち、ときどき遊びに行ってもいいか」
 わたしは黙ったまま、こくりとうなずいた。
 自分の部屋で着替えを済ませ、窓を開けると、窓辺に小鳥がやってきていた。
 「おまえもさよならを言いにきたのね」
 小鳥は飛び立ち、二度ほど宙を舞うと、わたしの視界から消えた。
 「沙耶ちゃん」
 母の声が聞こえる。
 「おとうさんにお線香あげてね」
 「はあい」
 わたしはもう一度窓から空を眺めた。
 もう、風の声は聞こえない。でも、さみしくはなかった。
 「さよなら、とうさん」
 小声で雨模様の空に言ってみる。
 雨雲にとうさんの顔が浮かんで消えた。
 わたしは、なんだか少し大人になったような気がした。明日はもう少し大人になりたい。
 終わってしまったわたしの季節。
 残されたのは父の思い出。
 そして、六月の風の奏でるアリア。


COPY RIGHT:六高寺 弦 ROKKOJI Gen
E-MAIL ADRRESS:rkj@ezoya.co.jp

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