佇むは、夢界のほとり
1
砂漠。
見わたす限りの乾いた砂の波。余計なものは何一つない。夜が近づくにつれ傾くはずの太陽さえ、この無音のシンメトリーを保つため、常に中天に輝く――そんな完璧な砂漠。
クーリバは、もう四日もそんな世界を旅している。
退屈はなかった。砂漠が単調な世界だなどとは、そこにやって来たことのない者が言うことだ。砂に沈む足を引き抜きながらの重い歩みを休めるたびに、砂漠は彼に新しい色と光をかいま見せた。
赤、白、ピンク。月明りの夜には、砂は青くさえ輝く。
しかし、クーリバに砂漠の夜の寒さの記憶はない。眼前に広がる光景に見とれ、ふと我に返ると、太陽はいつも彼の頭上一番高いところにあった。
砂漠の太陽はそうあるべきなのだ。それは常に中天にあって、彼の赤銅色の背中を容赦なく照りつけていなくてはならない。その苦痛がなくては、砂漠を歩く充実感は半減する。
「クイル、あとどのくらいだ……」
クイルと呼ばれた小動物は自分の翼を広げて作った日陰に、器用に身を隠している。それは、その姿勢のまま、クーリバの肩の上で甲高い鳴き声を上げた。
「怠けるな、クイル。お前には大枚し払ったんだぞ。カニゴケの実だって、俺の食糧を犠牲にして随分買いこんだんだ」
クイルは、かかげた翼のあいだからリスによく似た頭を覗かせ、彼の顔を見た。
「そうか、もうすぐか……」そう言って水平線を眺めるクーリバの目に、鬱蒼とした緑が現れた。霧の森だ。あと数キロもないだろう。彼の顔に勝利の笑みが浮かんだ。
体力レベルは通常の60パーセント。申し分ない。霧の森で何か障害に出会ったとしても、それを排除するのに十分な力が残されている。それに、霧の森は食糧の豊富な土地だ。体力の回復をはかるチャンスはいくらでもある。
「賭けに勝ったな、クイル」
クイルは、肩から肩へとクーリバの首の後ろを駆けまわっている。
ジャングルのコースを選べば、行商人から食糧を手に入れながらひと月で霧の森へいけたろう。霧の森を目指す者のほとんどがジャングルの道を選んだはずだ。砂漠越えは無理だと、始めから決めつけているのだ。
だが、ジャングルは危険も多い。ああいう道にこそ厳しい罠が用意されているものだ。とくに、クーリバのように大いなる力と知恵をもつ者に対しては。
クーリバは背筋を正し、霧の森を澄んだ厳しい目で見つめた。クイルも緊張して翼をたたみ、肩の上でじっと霧の森を見つめている。あそこに新たな苦痛と困難が待っている。
クーリバは、彼を待つ苦難の予感を頭からふり払い、足下の砂に目を落すと霧の森へと再び力強く歩み始めた。
2
「サヤン。ねえ、サヤン」
女は部屋の床の隅に座りこんで、鼻に麻薬のチューブを入れた。生気のないライト・ブルーの瞳。黒い髪が汚れた壁によく馴染んでいた。
「どうしてなのかしら? ほかの人はもっと夢中になるのよ」
サヤンはバネのきしむベッドで暗い天井を見つめている。
「ほかの人となら、しょうがないって思うけど……」
「アガート……やり過ぎだよ」
アガートは凍えるように身を縮めた。カーテンが風にはためいて、朝の光が顔に当たるが、目に障ることはない。彼女にとっては光も闇も同じことだ。
「麻薬はセックスよりいいかい?」
女は答えない。
「仕事でも薬を使うんだろう。ミュージシャンは普通の奴でも人一倍使うって言うぜ」
「あんただって薬を使うじゃない……」
「あれは合法品だよ。僕は処方箋なしの薬なんて買わない」
「おんなじよ。合法品だろうと非合法品だろうと。みんなラキップ社が作ってるんだから。補助機はどこ?」
アガートは四つん這いになって、床をまさぐった。補助機はずっと向こうにあって、彼女は見当はずれの場所を探している。
「教えてよ。補助機はどこにあるの」
アガートが感覚補助機を求めるのは、薬が切れてきている証拠だ。このまま放っておけば、次第にいらいらして最後は反狂乱になって床を這いずりまわるだろう。実際、そうなるまで放ったらかしにしておいたこともあった。
「そうしているほうが、よっぽど中毒患者らしいぜ」
「意地悪しないで!」
手がベッドの脚に触れると、女は寝ころんでいるサヤンにしがみついてきた。
「意地悪しないで……」
サヤンはベッドから起き、女を引きずって補助機のそばに連れていく。スイッチを入れ、コードの先を耳の後ろのインターフェースに繋いでやると、女はたちまち落着をとり戻した。
「もう時間だ。出かけないと」
アガートは彼女の目のかわりの補助機を自分の前に置き、身仕度を整えている。服を着る自分を前から見るっていうのは、どんな気分だろう。
家を出ると、グリーンの車道にイエローの歩道。車の姿はない。
車道に10メートルほどの間隔をおいて設けられたレーザー・ビーコンはまったく作動していない。色は車道のグリーンだっが、そこは車に捨てられた道だった。朝は歩行者の姿もなく、役所のロボットが歩道の植込みの手入れをしているだけだった。
「おはよう、ラックマン」
「市民に親しまれる」ように役所がつけたロボットの愛称で呼びかける。無限軌道つきの亀といった格好のラックマンは、植込みのキメラ植物に延ばした作業肢を休めず、丸い背中に着いたセンサをサヤンに向けた。
「おはようございます。何か御用ですか?」
「君はブラドの店のほうから巡回して来るんだろう。ブラドの店はもう開いてたかい?」
「ブラドの店? ああ、エスカルゴ通りの出口にあるドラッグストアですね。私が通ったときはもう開店していました」
「ありがとう」
「いいえ、どうしたしまして」
これで朝の不確定要素がまた一つ解決した。サヤンはラックマンに毎日同じ質問をする。彼は、いつも変わらぬラックマンの律義な反応が好きだった。
手持ちの薬が切れるまで、あと一週間。ラキップ社の処方箋は、3日前に届いていた。薬の補充の時期を見越してか、ブラドはここしばらく店をいつもより早く開けているようだった。
3
ジーベン・ジャックがペンでテーブルを叩く音が響く。視線は書類に落としているが、読んでいるわけではない。彼はいつも会議の五分前からテーブルを叩き始め、会議のメンバーが集まってからも5分はそれを続ける。出席者は、ミーティング・ルームに入ってその音を聞いた瞬間から、その部屋の空間と、続く三十分ほどの時間がジーベン・ジャックのものだと悟るのだ。
彼がこういうこつを、いつどうやって身につけたのか、一度訊いてみたいものだ。チャプナイは会議に出るたびにそう思う。
ジーベン・ジャックは、やがてゆっくりと顔を上げた。どこを見るわけでもなく、眼鏡のつるに手を触れる。それが合図だった。
「報告は?」彼はまったく感情のこもらない声で言った。
「高難度世界のプレイヤーの昇格が今日のテーマです」
あらかじめ決っていた報告者が、そのテーマに関して、ジーベン・ジャックの決定に必要なデータを並べ始めた。
「難度レベル16にマークスマン候補が二人、難度レベル19にディスティングィシュト・クラスの候補が四人います。彼らの過去のレベルにおける成績は――」
月例の定期報告といったところだった。ラキップ社に高い金を払って、ネットワーク・ゲームに参加している連中の何人かが腕を上げた。そこで、褒美を貰える候補者が報告されているわけだ。
「――以上、候補者の昇格はいずれも特別な問題は見あたらないものと考えられます。ただし、この点に関して、チャプナイ・ラーム企画開発部員から補足意見の報告があります」
気の進まないスピーチである。平穏に終わる予定の会議に波風を立てる自分の意見に、いったい何人が耳を傾けるだろうか。
「手元の資料の三頁目を御覧ください。ディスティングィシュト・クラスの候補者、会員コードFUIE38617の資料のコピーです」チャプナイはジーベン・ジャックの視線が彼に移る前に口を開いた。
「最初の資料は、彼が当社のネットワーク・ゲームに参加するようになってからの記録です。彼がゲームで演ずることになったキャラクターの履歴書だと思って見ていただければ、理解しやすいと思います」
「〈クーリバ〉というのは、そのキャラクターのことだね」
ジーベン・ジャックは発言者を身ぶりで遮り、チャプナイに先を続けるよう促した。
「……そうです。〈クーリバ〉は3年前にビギナーズ・ワールドに登場しました。このレベルでは、途中放棄が一度、キャラクターの死亡判定が4度。ただし、到達度はそのたびゴールに近くなり、四度目には、記録的なスピードで勝利を達成しました。その後、シャープ・プレイヤーズ・クラスでは、死亡判定2回、3度目のチャレンジでクリア。エキスパーツ・クラスでは、途中放棄が一度だけでゴールに到達しています」
「異常な才能だな」ジーベン・ジャックは呟くように言った。「ディスティングィシュト・クラスにたどり着くのに2年8ヶ月しかかかっていない」
「以前にも、そういう例はあった」列席者の一人が言った。「社の指定しない薬を使っていたんだ。他人名義で薬を購入してコンピュータを胡麻化していた」
「そういう可能性もあります。資料にあるように、彼のアクセス時間は一回平均2.9時間に達しています」
「一アクセスあたりの制限時間ぎりぎりまでプレイしている、ということだな」
「普通は、こんなプレイを続けることは不可能です」
「だが、一応法律の範囲内だ」
「確かにそうですが、普通のプレイヤーのアクセス平均時間は一回当り1.05時間程度です。この規制は一部の不正な薬物使用者の精神崩壊を防ぐのが目的でした。このプレイヤーのアクセス時間が、普通の人間の精神力の限界を超えているものであることには変わりありません」
「三時間のアクセスは、疑似体験時間としてはどのくらいになるかね?」
ジーベン・ジャックが訊ねた。そのデータについてジーベン・ジャックは完全な知識をもっているはずだった。彼は、この件に興味をもち始め、会議の他の参加者にも彼の関心を悟らせようとしている。
「単純に消化されることだけがプログラムされているフェイズ、例えば長い単調な航海などでは、整理された事件の印象だけが大脳の長期記憶領域に注入されます。このような場合、疑似体験上の精神的消耗は実体験の数十分の1になりますから、一概には言えません。それでも3時間のアクセスは平均して3日分の実体験に相当するでしょう」
「しかも、彼のような強いプレイヤーの場合は、ゲームで演ずるキャラクターの弱体化がない。彼はゲームに勝利するために〈クーリバ〉の体力・知力レベルをうまく維持するだろうからな」
そう言った男は自分でもゲームに参加していた。彼は試作ゲームのテスト・プレイヤーだった。
「彼は高い体力・知力レベルを維持したキャラクターを疲れ切った頭で演じなければなりません」チャプナイが続けた。「そのような場合、いくらゲームがうまくいっていても、アクセスの持続は苦痛でしかないはずです」
「つまり――不正がある、と言いたいのか」
「わかりません。しかし、このプレイヤーには他にも異常な点があります。御承知の通り、プレイヤーは昇格のたびにルールを改変する権利が与えられます。彼もすでに何度かこの権利を与えられ、ゲームのシステムに干渉していますが、いずれの場合も改変の規模が異常に大きいのです」
「ルール改変の規模は予想がつかないんだろう? 偶然と考えるのが正しいのじゃないか」
「改変の大きさはホスト・コンピュータの処理能力のタイム・シェアの大きさで表せるのですが、彼の場合は平均して1.4パーセントにのぼっています」
「ゲームそのものを運営するのにも5パーセントほどしか必要ない……。何故そんなことになるのかね」とジーベン・ジャック。
「ルールの改変は、それがどんなに単純なものでも、ゲーム・システム全体の調整を伴います。ゲームの世界は矛盾のない整合性、合理的な因果律に基づいて構成されていなければなりません。たとえば、プレイヤーが自分の考案したキャラクターの登場を要求すれば、そのキャラクターの周辺の環境整備が必要で、ホスト・コンピュータは平均0.12パーセントの処理でそれに対応します。今問題になっているプレイヤーの場合、その要求が常にゲーム・システムの核心を突くようなものであると考えられるのです」
短い沈黙が辺りを支配した。
皆チャプナイが言うべきことを言い終わったのを知り、ジーベン・ジャックの発言を待っていた。ジーベン・ジャックは再びチャプナイのリポートに目を落としている。やがて彼はゆっくりと書類を閉じながら口を開いた。
「異常なプレイヤーだ。ゲームをモニターしている君から見れば、まるで人間以外のものがアクセスしているように思えるだろう。調査が必要だな……」
要求は通った。チャプナイは安堵の溜息が漏れるのを抑え、平静を装ってジーベン・ジャックが続けるのを待った。
「今のところ実害はないようだが、彼はラキップの構築したシステムを滅茶苦茶にしてしまう可能性がある。薬物使用を含む何らかの不正があるのか、単に異常な才能の持主であるだけなのか……。それを確めておいたほうがいい」
「許可をいただけますね?」
「よろしい。だが、とりあえず昇格は問題なかろう。ホスト・コンピュータの決定には干渉するな。彼の名はわかるかね」
「資料にあります。サヤン――デュラック・サヤンというのが彼の名です」
4
淡い霧のなかで、リオはクーリバを待っていた。
彼と別れて道を進むのは久しぶりのことである。彼女はジャングルを通ってここにやってきていた。ビギナーズ・クラスの彼女にとっては、ジャングルが一番安全な道だったからだ。
淡い霧は彼女の座った場所の10メートルほど先で、定規で仕切ったように消え失せている。草と湿った土の地面もそこで終わり、そこからは広大な乾いた砂の大地が続いていた。
やがて、クーリバの姿が見えた。その逞しい赤銅色の肉体は、砂漠の砂から湧き出たように、突然彼女の視界に入ってきた。クーリバの世界とリオの世界が一つになった瞬間である。彼は霧の森に足を踏み入れると、少しも迷うことなく彼女のほうに近づいて来た。
「予定通りね。砂漠はどう?」
クーリバはその質問に答えず、リオの傍らに腰を下ろす。自分の体験について話すよりも、リオの得た情報が欲しいのだ。仕方がなく、リオはここに来るまで見聞きしたことをクーリバに伝え始める。
言語は用いない。集約し圧縮したコードで情報をやりとりする。クーリバと最高の一体感を感じる時だ。リオはこれを味わいたくてゲームに参加していた。
だが、クーリバは違う。彼はゲームそのものに興味があった。彼は能力の全力でゲームを戦って着実にクラスを上げていた。
「ガイド・キャラクターは必要ないかも知れんな。クイルだけで十分だ」
それだけ言うと、クーリバは立ち上がった。リオは、しばらくはクーリバに黙ってついて行くほかないことを知っていた。彼が再びリオの情報を欲しがるときまで、ただじっと彼に従っていくのだ。
5
いかにして人はルールの核心をつかむのか。
自分の変革し得る領域。他律的な所与の世界。その両者に別個に、あるいは横断的に存在する無数の法則。当然の因果律の偶発的な交差が生む予想不可能な事態――いや。
チャプナイは、うすく目を開けて端末機の画面をちらりと見た。まだ目の疲れがとれずず、画面の文字がちらついて見える。
――違う。偶発性という考えは危険だ。偶然とは結局のところ、知力の追跡できない因果律の発現に過ぎない。それがシミュレーション工学の前提ではないか。しかし、それならデュラック・サヤンという男は因果律のすべてを支配しているというのか? そんなことはあり得ない――決して、絶対に。
「疲れてるようね。いいミニ・トリップのロムを知ってるわ。気持ちが休まるわよ」
「ああ――リーノか」
声のするほうを見ると女がチャプナイの顔を見つめている。
「ミニ・トリップ? 僕には用なしだよ……。インターフェースがないんだ」
ミニ・トリップはネットワーク・ゲームと違い、独立型でやる遊びだ。それを使う人間を一定時間のあいだ好みの人工的疑似環境に投げ入れる。緊張、安堵、興奮、歓喜。この国では悪夢でさえ金で買える。
チャプナイは、彼にインターフェースがないことを知ってリーノが驚くだろうと思っていた。統計では、彼の年代の男は4人に3人はあれをつけている。しかも彼はバイオ・インターフェースを開発したラキップ社の社員だ。しかし、女は驚くかわりに、こう言った。
「あなた、移民なんでしょう」
「ああ」
移民であることがインターフェースをつけない理由になるのかどうか、彼にはわからなかった。だが、リーノはそれでしごく納得したようだ。
「デュラック・サヤンの情報は何か手に入ったかい?」
「ジーベン・ジャックのくれたパスワードはたいしたものよ」
リーノは脇の下に挟んでいた紙の束をテーブルに置いた。慇懃な仕草で書類の端を整えるのを忘れなかった。彼女と組んで3日になるが、そういう動作が彼女の癖らしい。くだけた喋り方との組み合せに、チャプナイはいつも珍妙でちぐはぐなものを感じる。
「ラキップの人事管理センターのものじゃないか。彼はラキップの社員なのか」
「東海岸の都市部では三人に一人はラキップの系列会社に所属してるんだから、珍しいことじゃないわ。職業は検索係。住所は西区だわ」
「西区というのは、ほとんど無人地区なんだろう」
「そう。もとはエグゼクティブ・クラスの住む高級住宅街だったんだけど、彼らが端末機で仕事をするようになってからは、過疎地区になってるわ。それから……」
リーノは今度はポケットから皺だらけの書類を取り出した。政府の医療福祉局の書類だった。デュラック・サヤンの薬物処方記録。特に異常な点は見当たらない。処方箋発行者はすべてラキップ社になっている。同種の書類がもう一枚。被処方者の名はマイエル・アガート。
「デュラックの同居人よ」質問の前に答えが返ってきた。「規定外の薬を手に入れるのは、他人名義の処方箋を使うのが普通でしょう。だから調べたの」
「これはひどいな……」
睡眠薬に痛み止め、精神安定剤に覚醒剤。雑多な処方箋発行者、法律ぎりぎりの処方量。法律に反しなければ、医療福祉局も廃人になるのを禁止しないというわけだ。
「しかし、こういう薬を服用してもゲームで有利にはならない」
「そうね。でも、処方記録から察して、マイエル・アガートが非合法の薬を手に入れている可能性は十分あるわ。こういう薬の服用の仕方をする人間は、人殺しをしてでも薬を手に入れようとするものよ」
「そういうものかね……」
チャプナイは何となくリーノの顔を見て、彼女がずっとこちらを睨んでいるのに気づいた。表情に感情はなく、ただチャプナイの顔をじっと見ている。
「あなたの成果を伺いたいわね、チャップ」
奇妙な圧迫感に対抗したくなり、彼もリーノの目を見つめた。彼女は石か何かでも見ているように、目を逸らさない。
「エンジニアとしての僕は、彼のゲーム・プレイに非常に興味があった」
チャプナイは座り直すふりをして、リーノから目を逸らした。
「サヤンのプレイの凄さには、薬の乱用とかアクセス時間の長さとかを越えた何かがある。そこで僕は彼の最近のプレイを追ってみることにした」
「ホスト・コンピュータの入出力記録を読むわけ? ゲーム1時間分を読むのにひと月かかるわ」
「そうだ。だから、僕は彼のプレイをかいつまんで眺めることにした。彼のプレイに起因するコンピュータの負担が一定のレベルを越える場合だけを抽出するプログラムを組んだんだ。それでも、ここ1週間のプレイの様子を見るのにまる1日かかったよ」
「なるほど。考えたわね」
「おもしろいことに、サヤンがコンピュータに異常な負担をかけるのは、ルールを改変するときばかりではないらしい。プレイ中でさえ、最高0.005パーセントのタイム・シェアを独占したことがある。新聞記事のデータベースが半年分いっぺんにできる処理能力だ」
「具体的に、いったい何をすればそんなことになるの」
「おとといの晩、彼は砂漠を横断した。渡ることのできないはずの砂漠だ。どんなガイド・キャラクターもけっしてその道を指示しないようになっている。しかし、彼は渡った」
「自分の判断でその道を選んだのね。でも、キャラクターの死亡宣告が待っているだけの道なんでしょう」
「以前のプレイで、彼はすでに砂漠の道を経験している。〈悪意の〉ガイド・キャラクターに騙されて体力を消耗しながら、それでも目的地にたどり着いたんだ。その経験が生かされていたことは間違いない。とにかく、彼は砂漠に足を向けた。そして、彼のキャラクターの行動はゲーム・システムが予想していないものだったというわけだ」
「彼が砂漠を歩き始めるまで、砂漠は単なるゲームの境界線だった。そして、ホスト・コンピュータは、初めて砂漠が横断可能かどうかの計算をやったのね」
「ルールの整合性からいって、砂漠が横断可能という判断を下さざるを得なかった。そうなるとホスト・コンピュータにとっては仕事が増える。ただの境界のイメージだった砂漠を、疑似体験に耐えるイメージに作り変えなきゃならないからな」
「ホスト・コンピュータは、数百万人分の心理データとゲームの参加者の行動パターンを記憶しているわ。そのデータでゲーム・デザインをサポートしたはずなのに……」
「サヤンは、そのすべてのデータから外れた行動をとったんだ」
リーノは立ってチャプナイの周囲を歩き始めた。ときどき彼に向ける視線にチャプナイは我慢できないものを感じ始めていた。まったく奇妙な女だ。表情からは、相変わらずどんな感情も読みとれなかった。
「ラキップの人事管理センターはもっとデータをもってるはずだ……」
「もっと詳しい経歴を手に入れるわ。それとラキップ系列の保険会社。医療福祉局も、もう一度あたってみるわ」
リーノはそう言うと、勝手に帰り支度を始めた。チャプナイはとっくに退社時刻になっていることに、初めて気づいた。
6
加湿器とエアコンの微かな音。それがデュラック・サヤンの意識を一つの世界に連れ戻す。力の抜けきった肉体。汚れたシーツ。半開きの目で、彼は自分の掌をそっと見る。
細く、しなやかな指のついた柔らかな掌である。その背景に、なだらかな曲線を成すアガートの身体が、死んだ軟体動物のように横たわっていた。
白く艶のない肌の成す綾線に、ぽつんと青く染められた乳首が見える。乳首だけではない。青い髪。青い唇。青い眉。彼は、昨日のアガートがパーティー帰りだったことを思い出した。
ベッドから起き上がり際に、豊かとは言えない女の尻に触れてみる。伝わる温もりが騙されているように不自然に感じられた。寝起きの非現実感が、まだ残っている。
そして、彼は退屈なもう一つの世界に自分の所在を確める。汚れた壁。壊れかけたベッド。それにアガート……。ここでは自分はクーリバのように自由ではない。住まければならない家があり、行かなければならない職場がある。
一番の不満は平坦な時間の流れだった。限りのない繰り返しだけが続く生活。変化を拒否し、彼を閉鎖されたシステムのなかに閉じ込めている。この世界の退屈さはゲームの代償なのだろうか。
「サヤン……」
服を身につけようとしていたサヤンの首に女の腕が絡まる。アガートの息が襟元に感じられた。
「出かける時間だ、アガート。パーティーはどうだった?」
「いつもと同じ……。あんなものに興味はないわ……」
「ミュージック・ロムが完成したんだろう。有名人がたくさん来てたんじゃないか」
「ミニ・トリップよ。私は天才なんだってさ。最高のコーディネーターなんだって」
アガートは手を解いて、乱暴にベッドに腰かけた。
「鈍い連中から誉められたって、ちっとも嬉しくないわ。それよりサヤン、あれ、何とかできそうよ」
「二人だけのゲーム?」
サヤンは無理に興味をひかれたふりをした。この話をするアガートをないがしろにすると、ろくなことはない。あれというのは、アガートが実現したがっているプログラムのことだ。
「応用できそうなプログラムがいくつか手に入りそうなの。疑似環境を排除しちゃうのよ。邪魔物はなしだわ。意思と意思で結合できるのよ――」
まともに最後まで聞いたことはなかった。彼女の執心ぶりも努力も、サヤンにはまったく理解し難いものだった。彼にわかるのは、アガートが満足していないということだけだ。ゲームにもミニ・トリップにも、サヤンとの生活にも。
やっとアガートに話を打ち切らして、会社に向かったころには十時を過ぎていた。出社の定刻には間に合いそうもない。誘導ビーコンのある通りまで出てタクシーをひろい、自分の仕事場にやってきてみると、彼専属の上司であるトコイはすでに端末機の席についていた。
トコイは彼に背中を向けたまま手で合図をし、モニターに見入っている。サヤンの昨日までの仕事をチェックしていたらしい。
「サヤンか。遅かったな」目は画面の文字を追い続けたままだ。
「今度は前のよりうまくいったでしょう、ミスタ・トコイ」
「ホスト・コンピュータはエラー・メッセージを送ってこない。この段階では成功だな……」
「本人より本人らしく反応するはずです」
トコイの目は、プログラム・リストを追っていた。ゲーム一世界分を構成するのに十分なほどの膨大なリストだ。
「それを眺めて理解しようとしたら半年もかかりますよ」
トコイは初めてモニター画面から目を離し、呆れたような顔でサヤンを見た。
「読んでるわけじゃない。見惚れてるのさ。どのくらい自分で補った?」
「正確なとこはわかりません。いちいち数えてるわけじゃない……。4割くらいかな」
サヤンは椅子に座って自分のお茶をいれた。トコイは上機嫌らしい。
「このプログラムの本格的な検証は来週することにしよう。それまでに、もうひとつくらい組んでしまいたいな」
トコイはサヤンのコーヒーカップのそばに書類を投げ出した。数枚の紙の上に中年の女の写真が添えられている。
「検診での心理データのほかに、医師の記録もある。ちょくちょく精神科医のカウンセリングを受けていて、材料は豊富だ。ラキップの奨学金で学校を出ているから、経歴に関するデータもある」
ということは、サヤンが情報のジャングルから探さなければならないデータもまた多いということだ。しかし、やりがいはある。
「映像データは?」
「それはわからん。君の腕しだいでは見つかるかも知れん」
おそらくあるだろう。電話の映像データに、ラックマンのセンサーが捉えた買物姿。データ採録者は蒐集手段を合法的なものに限っていないようだ。トコイはそれを知っているのだろうか?
サヤンはまず、それらの個人情報を検索する。ラキップ社のもつあらゆる個人データファイルが対象だ。彼が使用を許されたパスワードには、恐るべき権威があるようだった。もっともパスワードは、この仕事専用のバックアップ・ツールが内蔵していて、彼が直接扱えるわけではなかったが。
そのツールが、この仕事を彼向きのものにしていた。それは、ホスト・コンピュータと彼を、耳の後ろのインターフェースで繋いでくれる。彼は、階層構造になっているファイルのメニューを、クーリバの行動を選択するときのように感覚的にすり抜けることができた。
やがて、集めたデータをもとに荒けずりな疑似人格ができあがる。おそらく、バックアップ・ツールに、ホストと連絡してそれを自動作製するような機能が盛りこまれているのだろう。それからがサヤンの腕の見せどころだ。即興プログラムからなる疑似人格には、必ず矛盾した点があった。彼はゲームで他のキャラクターと相対するときのように疑似人格とやりとりし、その不十分な要素を発見する。その結果は修正フェイズを経て、ただちにプログラムに反映される。サヤン自身さえ本物の人間と触れているような錯覚をもつようになるまで、せいぜい1日しかかからなかった。
「さっそくそれを読んでくれたまえ。今度のは検索ファイルの見当がつけやすいたろう」
実際には、そんなことをしても何の役にも立たない。トコイはサヤンの仕事がどんなものか、本当はよくわかっていないのだ。
「何に使うプログラムなんでしょうね」
「さあな」
「キャラクターに使ったら、素晴らしいゲームがデザインできるでしょうね」
「ゲームばかりがラキップの事業じゃないんだよ、デュラック」
トコイは端末機にログオフをコマンドしながら言った。
「将来役に立ちそうなもの、役に立つかも知れないもの、役に立つ見込みの立たないもの。ラキップは実にいろいろなものを研究している。君の作るプログラムは子供のオモチャになるかも知れないし、国が買い上げる戦略シミュレーションの一部になるかも知れない」
彼はトコイのくれた書類を読むふりをし始め、このもっとも退屈な時間が早く過ぎ去ってくれることを願った。
7
スポーツ・トレーナーに着替え、居間兼仕事場にしている小さな部屋の簡易ベッドに横たわると、チャプナイはやっと落着いた気分になれた。
前の所有者が物置きに使っていた部屋だった。部屋は15もあったが、気にいったのはここだけである。あとはバス・ルームとキッチンを使う程度なので、床の埃も積もるにまかせたままになっている。リースの家事ロボットをいれれば、こぎれいにできただろうし、そうするだけの収入もあった。そうしなかったのは、彼が職業に似合わずロボットというものを嫌悪していたからだ。
カードを差こむだけで目的地に連れていってもらえる車には、なんとか馴染むことができた。それなしでは生活が成り立たないというこの国のルールのせいもある。
しかし、それ以外のロボットは嫌だった。とくにあのラックマン。
この国では子供が利口な飼犬を相手にするように、あいつらに話しかける。勤勉でやさしい街の友人たち。
だが、彼の故国では、あれとそっくり同じ形式のロボットが人殺しを働いていた。
整然とした隊列で人々を追いつめるロボット。女の叫び声。催涙弾の発射音。哀れみを乞う老人たち。騒ぎが鎮まると、警官たちは傷ついた人々をそっちのけで、故障したロボットの配線にテスターを当てていた。
あそこではラックマンと呼ばれてはいなかった。単眼の悪魔――それが、あそこでのやつらの名だ。その名に相応しい役割をやつらは果たしていた。
今日立ち寄った街にラックマンが多かったことを、チャプナイは思い出す。10軒に1軒も人の住まない街は痛みやすい。だから、住む人間より多くのラックマンが必要なのだ。都市の美観を損なわないため……ごく希にそこを通る人の目に、不快感を与えないため……。
あの街にデュラック・サヤンがいる。
車を誘導するビーコンが撤去されているため、彼の住む通りは見ることができなかったが、あの街はどこも同じ感じだった。住民の数より多い無人ストアは、チャプナイの車が近づくとネオンを光らせ音楽を流した。センサーで客になりそうな者を感知して無駄を省いているのだ。常時明りの灯っている店だけが人間の営業している店だった。車が珍しいのか、店の中の連中は彼が近づくとウィンドウに集まってこちらを見た。10人に8人は福祉局の生活保障に頼って生きているという話だった。
だが、デュラック・サヤンはラキップ社の正社員だ。郊外にあり余っている住宅を買うだけの収入は十分にあるはずではないか。いったい何を好きこのんで……。まあいい。すでに手がかりはつかんだ。
それはゲームの一場面、タラム市のでのクーリバの動きを調べることだった。
タラム市は、全体が魔術的な迷宮として設計されていて、そこでは預言、呪術、魔法がプレイヤーの行動の鍵となる。登場するキャラクターたちはそういった魔術的外形のもとにプレイヤーを助け、あるいは妨害するわけだ。
彼らの設計はゲーム全体のなかでもかなりの秀れたもので、、デザイナーの最高度の技術の結晶と言えた。それらのキャラクターは、プレイヤーとの知的交渉によってゲームの妙味を高めるために設計されていたのである。
しかし、複雑に設定されたキャラクターほど、その反応の整合性に矛盾が生じやすい。プレイヤーズ・キャラクターとの交渉が予想しない形で行われ、コンピュータがその辻妻合せに追われるという現象が発生しやすい。
そこがチャプナイのつけめだった。サヤンのケースを他の場合と比較することができる。
まずは、普通のプレイヤーの事例。
二百を越えるプログラム自動追加の記録を、嘗めるように目で追う。
とくに共通した傾向は発見できない。それが当然だ。こういう事は、ゲーム・デザインの資料になった心理データの包含していない要素が引き起こすのだ。コンピュータとデザイナーが未だ知り得ない人間本性の現れと考えることもできる。シミュレーション理論は、いつかはすべての行動を予測するプログラムを完成するだろう。しかし、目下のところ未知の心理が引き起こすプレイヤーの行動は〈偶然〉の行動としてしか理解不能である。
次に、デュラック・サヤンのケース。プリンタが彼のデータを打ち出す。
チャプナイはプリンタを作動させたままコーヒーを入れ、デスクに戻って初めてその異常に気づいた。プリンタが止まらない。記録は膨大な量に上っていた。1ケースについて、他のプレイヤーの数十倍、いや数百倍のプレイ記録が保存されていたのだ。
いくらサヤンのアクセス時間が長くても、こんな記録を残すのは無理だ……。
リストを検討すると、サヤンがキャラクターとの接触を通じて、そのキャラクターの応答パターンのほとんどを抽き出してしまっていることがわかった。これでは、キャラクターの仕様書を眺めてプレイしているのに等しい。
彼のキャラクターとの応答には、決められた順序ようなものがあった。魔術的反応、権威的反応、利益的反応といったぐあいに、キャラクターの行動パターンを引き出している。
キャラクターの走査を短時間のうちに進める手段は、あるにはある。ひとつには、キャラクターを動かしているプログラムの〈抜け道〉を使うことだ。それはデザイナーがプログラムの確認や修正のために残しておいた経路で、余計なフローをとばしてプログラムの核心部分に触れることができる。しかし、それには特殊なパスワードが必要だし、記録が残るはずだ。
もうひとつは、プレイヤーのキャラクターを機械に操作させてしまうことだ。光信号が疑似環境に展開する前のステップで、別のコンピュータに応答させればよい。そうすれば、キャラクターは人工知能本来のスピードで応答パターンをさらけ出すだろう。だが、それには――。
「大型の機械でなきゃ駄目だ。3Dデータベースをいくつも稼働させられるくらいの大型機だ」
チャプナイは壁に向かって、半ば叫ぶように言った。
もっとデュラック・サヤンの情報が必要だ、と彼は思った。この男には、得体の知れない背景があるような気がする。大型コンピュータをゲームに使わせるような何か。あるいは、それに匹敵するような何かが。
8
木漏れ日が目に障る。絶えることなく変化する光の輪舞。それはリーノの作用知覚にある種の意味の形成を呼びかける。
まだ、薬の効果が彼女を去っていない。最近は連続した服用が続いているから、それがもたらす効果の残照も長く続くようになっているようだ。この場所を選んだのは考えが足りなかった。彼女はベンチから立ち上がって光のさざめきから目を逸らし、耳の後ろにあるバイオ・インターフェースに手を触れてみた。
コードはない。
それを思わず確認したくなるほど、今のリーノにとって周囲は現実感に乏しかった。
「リーノ・ルティー、あなたに白い服は似合わないわ」
「アガート……」
アガートはリーノのすぐそばに佇んでいた。顔は彼女のほうを見ていない。足下に、無限軌道つきの感覚補助機が番犬よろしく付き添っている。目は色の濃いサングラスで隠され――彼女は木漏れ日の揺れるのを気にする必要はない。
「それは大丈夫なの?」
「安全よ。小型のラックマンといった感じだけど、何も記録しないし、伝えもしないわ。これは完全なスタンドアロンタイプなの」
感覚補助機がラックマンと異なることは、リーノも知っていた。だが、それは街の清掃夫であり防犯係であるラックマンにあまりにもよく似ている。ホスト・コンピュータに遠隔操作されているラックマンに見られると、リーノは誰かに監視されているような感じがして仕方がなかった。アガートに会うときも、感覚補助機に話を盗み聞きされているような気がして、つい同じ質問をしてしまう。もっと小型で胸に下げることのできる補助機が開発されているのに、アガートは何故かそれを用いなかった。
「進んでる?」
「ええ、連中サヤンに御執心だわ。私に今までで一番ハイ・レベルのパスワードを預けているもの。とりあえず、ラキップの人事管理センターのデータを引き出してやったわ。彼とあなたの薬物処方記録といっしょにね」
アガートはそれを聞いて愉快そうにクスクスと笑った。
「バイオ・インターフェースの開発過程の資料がやっと少し見つかったわ。実験で当局とトラブルがあったらしいの。道理でなかなか見つからないはずよ。彼らは、ああいうトラブルの記録は必ず人目につかないところに片付けておくわ」
「やっぱり私たちは試作品なのね」
リーノの脳裏を、白い記憶がかすめる。幼い自分とたくさんの子供たち。インターフェースに繋がれたコードと、身体を固定するベッド。壁も床も白く塗られた部屋。
いつのまにか陽の光が傾き、リーノの目に飛びこんできていた。
「それから……」
意識が白昼の夢魔に揺すぶられる。けっして意味をなさない言葉とヴィジョン。絵画が描かれたものの知覚を要求するように、光がリーノにそれを強制する。
「アガート、連中には何かやましいことがあるんだわ。だから私たちの記憶を消したのよ。何らかの心理的外傷と記憶を結びつけて抑圧したんだわ」
目を閉じて日の光を避けながら、リーノはアガートと出会ったときのことを思った。それは、ミュージック・ロムに必要な心理統計データを検索していたときのことだった。
彼女の索き出したデータをもとに数名の作曲家が曲を作り、それを機械可読化する。後はコンピュータによリ、メロディの起伏を人間の生理的変化のシミュレーションに合せていくのである。アガートはこの最後の段階を受けもつコーディネーターだった。
その日、偶然に作業中のアガートを見たリーノは、肌が粟立つような戦慄を覚えた。喉元に不思議な恐怖が突き上げ、彼女は逃げるようにその場を去った。リーノが、白い部屋の記憶の再生とともにアガートを恐れる必要がないことを知ったのは、数日後のことである。
「サヤンはまだ思い出さないの?」
「全然だめだわ」
「本当にあの部屋にいたのかしら」
「それは間違いないわよ。あなたもゲームで彼のキャラクターに会ってみればわかるわ。それに、他の人じゃできない仕事をやってるもの」
「知ってるわ。それを調べるのが今の私の仕事なんだから。いずれにしても、彼のおかげで調査ができる」
「ねえリーノ、それを調べてどうするの。私たちにとって得なことでもあるの?」
リーノは溜息をついた。そのことについてなら、もう何度も話した。アガートは結局わかってくれない。自分が何者なのか、どこから来て誰に育てられたのか、アガートは知りたくないのだろうか?
「こういうものも手に入るわ」リーノは、プログラムのリストをアガートに手渡した。「あなたの考えている計画に役立つと思うわ」
「脳波変換プログラム?」アガートはリストを手にぶら下げたままで言った。彼女の感覚補助機がそれを読みとったのだ。
「全部揃ってるわ。ゲーム用、ミニ・トリップ用、音楽用、用途のわからないものもあるわ」
「凄いわ、リーノ」
アガートの喜びようはリーノの想像以上だった。意識と意識を直接結びつけるためのプログラム。そんなものが本当に作れるのか、リーノにはわからない。だが、アガートがそれに執着する気持ちは何となくわかる。セックスでも麻薬でも癒されない深い孤独と不安。無意味な何かを追求することが一番よい解決策なのかも知れない。
アガートは彼女の肩に手をまわし、頬にそっと口づけした。
リーノは、自分のやっていることもアガートと変わりないのかも知れないと思いながら、彼女の頬にそっと口づけを返した。
9
クーリバの移動能力はリオとは較べものにならない。彼は湿った枯れ草の積もった歩きにくい土地を疲れも見せずに進み続ける。リオのほうは息も絶え絶えで、体力値の低下を何度も彼に訴えるが、クーリバは応える様子もなかった。
「チシャマインだ」
クーリバが村の名を口にして立ち止まったときには、リオはゲームから脱落する寸前の状態だった。地面にへたりこんだリオには、村はまだ見えない。そういう知覚能力もクーリバのほうがずっと上なのだ。
「あの村にガイド・キャラクターがいる……。泉の導士と呼ばれているわ」
「面倒なキャラクターか?」
「占いの報酬は、クイルの卵。それで2人のプレイヤーズ・キャラクターを相手に占うの」
「2人?」
「そういうルールなのよ。『2人分の魂を妖域に引きこんで』体力レベルをそれぞれから0.5パーセント奪うの」
「それで全部か」
「チシャマインの住民を走査して仕入れた情報よ。完全じゃないと思うわ」
「クイルに卵を産ませる方法はわかる。2人のプレイヤーズ・キャラクターはここにいる……。しかし、他に何かあるかも知れないというのなら……」
「待って。私は泉の導士の占術を体験してみたいの。妖域というのは導士と2人のプレイヤーズ・キャラクターの意識の交感らしいのよ。味わってみたいの」
「キャラクターの指図に従えというのか。そんなことをしていては勝利は望めない。ゲームのそういうところを味わいたいのなら、別行動をとるんだな」
とりつく島もないといった返事にリオは落胆を隠せなかった。クーリバがそういうであろうことは十分予想していたが、彼がリオの願いにまったく興味を示してくれないことが、やはり悲しかった。
シチャマインの村は、それからしばらく歩くとリオの目にも見えてきた。住民のキャラクターはみな体格が小さく、温和な性格に設定されているようだ。クーリバは村の片隅に天幕を張り、そこでクイルと睨み合いながら、餌をやり続けた。疑似環境の外で、クイルの産卵の条件を探っているのだ。
クーリバには造作もないだろう。彼はクイルに卵を産ませると、リオとともに泉の導士のもとに赴き、例の走査でたちまち目的を遂げてしまうだろう。だが、今度だけはリオもクーリバに黙って従う気はなかった。泉の導士の占術が味わえないのなら、自分も走査して、プログラムの見当をつけてみたかった。リオとクーリバを結びつけることのできるプログラムなら、アガートとサヤンの意識を結合することにも応用できるかも知れない。
リオはテントの片隅に蹲りながら、彼女のクーリバにたいする初めての造反の時をじっと待った。
10
部屋にビープ音が響く。電話がかかっているのだ。チャプナイはガウンを羽織って受像機の前に座った。自動受信にセットされた電話は、主人が用意をする猶予のための二十秒間だけ待って、着信にモードを変更した。
「チャップ……。私、リーノ……」
ひどくゆっくりした話しぶりだ。画面に彼女の姿はない。映像をカットしているらしい。
「私、何だかおかしいの。端末機がショートしたみたい。あっ」
ガラスの割れる音。続いてドスンという重いものが落ちる音がした。
「どうしたんだ、リーノ。絵を入れてくれ」
「映像設備は取り外してあるのよ。あれは駄目なの。画面がちらつく感じがして薬を飲んでると同調しちゃうことがあるの」
「どうしたんだ。端末機がショート?」
「わからない……。そんな感じだったわ。突然目の前が真白になってアクセスが解けたの。コードを引き抜いたのに、まだ何にも見えないのよ」
「いいかリーノ、端末機のショートなんて、ありえない事故だ。ゲームか? オン・ライン・トリップか?」
ホスト側の事故――チャプナイの頭をよぎったのはそれだった。だとしたら、事故の規模はアクセスしていたユーザーの全体に渡る。最悪の事態だ。
「アガートはねえ、とても臆病なのよ。いつも、ぬいぐるみにくるまって寝ているの。私がそれを見てびっくりしたら――」
「リーノ、何を言ってるんだ」
「彼女、いっしょに寝てって私に言うの。ぬいぐるみとアガートと……。私は嫌だったけど――ああ」
「どうしたんだ、リーノ」
再び何かが壊れる音。チャプナイは思わず椅子から立ち上がっていた。
「あ……ああ……。チャップ、あなたよね。わからなくなるのよ。頭のなかで何かが暴れて……」
「今そっちに行く。じっとしているんだ。救急車を――」
「い……いいのよ、チャップ。そこにいて。お願いだから……。今しか駄目なの。私にはわかるのよ。指の感覚がなくなり始めているわ。時間がないの」
「馬鹿なことを言うな」
「聞いて! インターフェースの開発よ。それが鍵なの。初期には何かもっと違った目的の使用を目指していたようだわ。だから、私たちは違うのよ。ゲームは応用例の一つに過ぎない。データはあなたとアガートにに送ったわ――ああっ」
「リーノ、もう喋るな。じっとしているんだ」
「白、壁も床も真白だわ……。外は駄目。叱られるの。行っちゃ駄目よ、アガート。アガート!」
それきり、彼女の声は途絶えた。
チャプナイはその場で医療福祉センターに連絡をとり、機械音声の紋切り型の質問に合せて必要な情報を伝えると、着替えもせずに車に飛び乗った。
11
サヤンの機嫌は悪かった。リオの泉の導士の走査は、当然ながらクーリバの試みた走査の邪魔になり、結局彼は導士との接触を一旦中止してしまった。
クーリバがリオに浴びせた非難を、ここでもう一度繰り返す気はないらしく、今朝のサヤンは静かだったが、アガートが何を訊いても黙ったままだった。
アガートは仕方なく、自分の作業に没頭している。
材料は揃っていた。後はプログラムを一つのフローに組み合せるだけだ。彼女は、そのために自分用にセットされたバックアップ・システムを会社から持ち帰っていた。しかし、音楽をコーディネートする技術でプログラムを完成させられるだろうか?
理屈は同じはずである。生理的な感情の動きのシミュレーションをもとにしてフローを組む作業より、むしろ簡単なはずだ。
「まだ、やってるのか」サヤンの声がすぐ後ろに聞こえた。
「もうすぐよ。素晴らしいのができるわ」
「ゲームより凄いのができたら、誉めてやるよ」
「純粋な世界を作るのよ。ゲームは現実のカリカチュアみたいなものでしょう」
「僕には現実がゲームのカリカチュアのような気がする」
「仕事では感覚的な時間と現実の時間が完全に一致しているでしょう。私にとっての音楽のコーディネート、あなたにとっての情報検索」
「だが、仕事は孤独だ。相手はいない」
「そう。そして、私の現実の世界にはあなたがいる。ひどくのろまで陰気な時間を挟んで私を見てる……」
「何故ゲームに満足できないんだ」
「あなたは満足してるの?」
サヤンは再び黙った。まだ、ゲームの邪魔をしたことを怒っているらしい。
「いいのよ、サヤン。わかってくれなくたって。ただ、これが完成したら手伝って欲しいの。このプログラムは二人でアクセスしなきゃ何にもならないんだから。ゲームの邪魔はもうしないわ」
アガートは作業を止め、気分転換に通信のファイルを覗いてみた。広告の類いのほかに、珍しくちゃんとした通信が入っていた。リーノ・ルティーからのものだった。
12
救急車の出動を第三者が要請すると、収容先の情報が自動的に連絡されてくる。チャプナイはまず、自宅のコンピュータを介して、それを車の通信パネルに表示するようセットした。次にラキップのホスト・コンピュータに回線を繋ぎ自分のパスワードを入力する。
ゲームとオン・ライン・トリップでの機能不良のデータを問い合せてみる。24時間以内に発生したものすべてだ。
回答は3件。回線の接続不良が1件と端末機側のソフトの読み込みエラーが2件。リーノが大規模な事故に巻きこまれた可能性はなさそうだ。彼女だけに起きうる事故とは何だろうか。スタンドアロンマシンでのミニ・トリップでのトラブル? しかし、あれはホストマシンでモニターできないだけに、マルファンクションは起きにくくできている。
彼女の収容先の病院があきらかになった。彼はそれを手早く車の目的地にインプットした。
事故の問題を考える前に、リーノが自分に送ったという資料を見てみよう。彼女が意識不明になる前に必死で彼に送った資料だ。何か手がかりがあるかも知れない。自宅のコンピュータから呼び出せば、資料の全文は無理でも、データの標題と検索されたファイル名くらいはわかる。
《ファイル名:特別供出金に関する支払い記録》
これはラキップの研究財務部門の記録だ。費用の名目はゲームのテスト・プレイとなっている。プレイヤーのIDコードはFULE38617、デュラック・サヤンのものだ。
《ファイル名:多元的システム開発 データ名:ウムベルト改良プランの有効利用に関する関係資料一覧》
多元的システム開発――プロジェクトの屑篭だ。本体としては使い物になる目途が立たなかったプロジェクトが、凍結されたまま大量にストックされている。後から企画されたプランに役に立つことがわかれば、ひっぱり出されることもあるが……。ウムベルト改良プランというのは聞いたことがない。
《ファイル名:触法事業に関する報告 データ名:オリバー・デルクセン事件》
オリバー・デルクセン……。ゲーム用インターフェースの開発者ではないか。リーノはインターフェースの開発が鍵だと言った。ゲームは応用例の一つに過ぎないとも……。触法事業とは、ラキップの研究開発活動が法に触れたということだろうか?
《ファイル名:実験試料購入に関する倫理基準 データ名:同意に基づく人体胚の取り扱いについての決定》
人体実験……。これはデルクセンの事件と関係があるのかも知れない。
ありていにこれらのデータを結びつけて推理すれば、オリバー・デルクセンがウムベルト改良プランに携り、そこで行われた人体実験が違法だった――そういう図式が浮かんでくる。サヤンは実験試料として使われた犠牲者? あの異常なゲーム・プレイは実験の成果なのか。
「だが、リーノは確か……」
彼女は、私たち、と言った。
チャプナイの耳もとに、リーノの電話の声がよみがえった。窓の外に飛び去る街の灯が、落ちていくリーノの意識の叫びと重なり、彼は思わず目を背けた。
13
病院の受付にいたのも、そこからチャプナイを病室に案内したのもラックマンである。街をうろついているラックマンとは作業肢の作りが違っていたが、チャプナイの大嫌いな単眼は同じである。途中、患者の手を引いて廊下をいく看護バージョンのラックマンにも出会った。最近は患者の機能回復訓練のため、ちょっとした世間話までできるラックマンがあるという。
病室のドアは半分開け放たれていた。白いカーテンに白い壁。ベッドの上で、さまざまな機器に囲まれたリーノの頭部は、彼女のものには見えなかった。凍ったように動かない表情も、もはや周囲の医療機器の一部のようだ。
「不随筋をコントロールする機能は生きている。心臓の鼓動も呼吸も大丈夫だ。しかし、意思は永遠に失われた」
ジーベン・ジャックだった。チャプナイは彼がいることにまったく気づかなかった。壁から抜け出てきたように彼はそこにいた。
「あなたはどうしてここに……」
「リーノがやった仕事の結果は自動的に私のところに転送されていた。ホスト・コンピュータとのやりとりのすべてだ……。今度のこともすぐにわかったよ」
「彼女に何が起ったんです」
「予想すべきだったという点では私の責任だ。ガード・プログラムだよ。端末側の検索ソフトを暴走させるようにできている。リーノは職務で与えられた権限を拡大解釈していたようだ。いらぬ情報を引き出し過ぎた」
「しかし、それだけじゃこんなことには――」
「彼女の場合は別だ。彼女の検索ソフトは、彼女自身の脳だったのだからな」
チャプナイがジーベン・ジャックの言葉を咀嚼するのに、少し時間がかかった。ゲームのプレイヤーが疑似環境を行くように情報の森を進む意識。理論的には可能だが、想像するのは困難だった。
「彼女の集めた資料を見たのかね?」
「いえ、ファイルとデータの標題だけです」
「どのデータも当局の要請があれば、いや個人の要請でも、法的な手続きを踏めば入手できただろう。検索者が引き出すデータから、その目的や意図を推定するプログラムがあることは知ってるな。ガード・プログラムは、あらかじめパスワードとともに登録された調査の目的と、実際の検索の推定意図が異なると判断されると、自動的に発動する。不正なパスワードの使用を防ぐための単純な防御機構だ」
「じゃあ、これは単なる事故だと――」
「そうだ」
チャプナイはもう一度リーノの表情のない顔を見た。もともと表情の変化の乏しい女だった。目を閉じているためか、今のほうが何かしら安堵に似た感情が顔に現れている気がした。こうなる寸前に、自分の目的を果たしたからだろうか。
「ウムベルト改良プランというのは何だったんですか。彼女はそれを知りたがっていたのでしょう」
「ウムベルトとは、特定の生物が知覚する世界の有り様を言う言葉だそうだ」
ジーベン・ジャックの声に、チャプナイが予想したためらいは一片もなかった。
「生物はもって生れた感覚能でしか外界を認識できない。それが、その種にとって、それなりに有効で十分な環境世界を形成している。その定められた神の境界を超えることが、プランの最初の目的だったらしい。バイオ・マシン・インターフェースと人工知能の助けを借りて、人間に新世界を与えようとしたんだ」
「そのプランで違法な人体実験が行われたんですね」
「どんな措置でも、最初に人間に施されるときは人体実験だよ、チャプナイ」
「しかし、当局は問題にした。普通の子供でなく、培養カプセルのなかで育てられた子供を使ったのは、ラキップもトラブルが生じる可能性があることを知っていたからだ」
「進歩に犠牲はつきものだ。法律もそれを認めている」
ジーベン・ジャックはベッドの脇に置かれたテーブルを指先で叩き始めた。
「子供たちには後見人として弁護士がつけられていた。ラキップの金でだ。会社は彼らの権利の保護に配慮していた」
「そんなことは無意味です」
権力者の得意なやりくちだ。間違った法律に基づいて逮捕し、判決のわかっている裁判にかける。チャプナイの故国では日常茶飯事に起っていることだ。正義とは、ただ疎漏なく手続きが踏まれたということに過ぎない。
「確かに当局は子供たちの扱いを問題視した」
ジーベン・ジャックはいらだちを隠さない声で言った。デーブルを叩く指のリズムが早くなる。
「しかし、オリバー・デルクセン事件が記録されているのはラキップのファイルだ。当局のファイルには記録はない。いいかチャプナイ、彼らは結局疑いを解いたんだ。それにもかかわらず、ラキップ研究倫理委員会はデルクセンを降格させる処置をとった。それで我々のファイルだけに記録が残ったんだ。ラキップのこの種の社内倫理規定は法律以上に厳しい」
いつものチャプナイなら、ここで引き下がっていたろう。しかし、今日の彼はジーベン・ジャックのいらだちを感じれば感じるほど、腹の底から彼に反抗したい気持ちが湧き上がってくるのを抑えられなかった。
「デルクセンを降格してウムベルト・プランを多元的システム開発に移管したのは、臭いものに蓋をするつもりじゃなかったんですか? いや、研究を凍結して目立たないところに永遠に葬ったつもりだった。ところが、運悪くラキップのどこかの部門が目をつけたんだ」
「それはそのとおりだ、チャプナイ・ラーム!」ほとんど怒声といってよい声だった。「一旦捨てられた研究が蘇った。そのわけまではわからん。知る必要もないことだ! とにかくその部門は何らかの目的をもって、デュラック・サヤンをネットワーク・ゲームに参加させた。我々はその部門をつきとめて交渉し、サヤンをゲームから排除すればいい。それで我々の仕事はかたがつく」
「この国にも、知る必要のないものがあるんですね……」
ジーベン・ジャックは何も答えず、病室の窓際にあるソファーに座り、街の夜景を眺めた。
チャプナイはベッドに横たわる女と、そんな女のことを半ば忘れて美しい夜景を見つめる男を見較べていた。彼の捨てた故郷には殴られる人々と殴る人々とがいて、そのあいだに立って彼らの関係を考えることは容易だった。しかし、今彼の前にいる男女のあいだに横わるものを理解することは難しい。
「マイエル・アガートの名を御存知ですか……」
「ああ、デュラック・サヤンの同居人だな。リーノの報告にあった。音楽関係の仕事に従事しているらしいな」
「リーノは電話で彼女の名を呼びました。彼女を知っていたらしいのです。当然サヤンにも面識があったでしょう」
「それを隠して調査していたということか……。彼女もウムベルト・プランの被験者かも知れんな」
「リーノにとってはチャンスだったんでしょう。サヤンを調べるふりをして、自分たちのことを調べていたに違いない」
「とにかく、この件は終わりだ。明日からは通常の勤務に戻りたまえ」
それはチャプナイも受け入れざるを得なかったが、デュラック・サヤンを忘れる気にはなれなかった。リーノやサヤンを他人と違った人間にした連中がいるのに、その後の彼らを見守る者がいないというのは、どうしても納得のいかない話だ。
自分は故郷を捨てたことに、どこか負い目を感じているのかも知れないと、チャプナイは思った。
14
アガートは、眠るサヤンの手首に指を当てて脈をとった。緊張の30秒間が過ぎると、次に血圧を計りにかかる。彼女は時間をおいて三度も同じことを繰り返していた。
一応異常はない。
とはいっても、異常があったときにどうすべきなのか、知っているわけではない。そうすることによってしか、自分の緊張を和らげる手段がないから、そうしているだけのことだ。
サヤンのインターフェースにはコードが差しこまれ、彼の脳は今、ゲーム用の端末機を通じてラキップのホスト・コンピュータと繋がれている。ただし、ゲームではない。サヤンの脳を駆け巡っているのは、アガートの組み上げたプログラムだった。
「つまらないでしょう。一人ぽっちで……」アガートは凍ったように動かないサヤンに話しかける。「我慢しててね。もうすぐ私もいくから……」
玄関の戸をノックする音が聞こえた。
「リーノ?」
訪ねて来るとしたら彼女しか考えられなかった。しかし、返ってきた声は男のものだった。
「ミスタ・デュラック・サヤンはご在宅ですか?」
男の声には強いなまりがあった。警戒しながらドアを薄く開くと、色の浅黒い東洋人がそこにいた。
「ラキップ社の者でチャプナイ・ラームといいます。デュラックさんとお話がしたくて伺ったのですが……」
この名前には聞き覚えがある。リーノといっしょにサヤンの調査をしていたとかいう男だ。
「どうぞ。デュラックは今就寝中ですが……」
男はアガートの足下に寄添っている旧式の感覚補助機が珍しいらしく、しきりに目を床に落としながら彼女の後に従った。この装置が彼女に全方向的な視野を与えていることは知らないらしい。
「ミス・マイエルですね。リーノ・ルティーを御存知ですか」
「え……ええ」
「彼女に事故がありました」
「事故?」
チャプナイは彼女の病状について喋り始めた。回復の見込みもないかわりに、栄養の補給さえしてやれば命に別条ないこと。医師とエンジニアがチームを組んで彼女の治療法を研究していること。にもかかわらず、現在の段階では治療の見込みはまったく立っていないこと……。
「すべて知っているのね。私とサヤンのことも」女は言ったのはそれだけだった。
「リーノは調査データをあなたに届けましたか?」
「ええ。でもあまりよく読んでいないの。彼女は熱心だったけど、私は秘密のデータなんてものに興味はなかったわ」
「あれは秘密ではなかったんです。正規の手続きを踏めば、簡単に手に入る情報だった」
「……そう……」
アガートが驚かないことが東洋人には意外だったようだ。興味はないと言ったばかりなのに。普通の人間はどうして、こういう明白な答えに納得しないのだろう。
「御用はそれだけ?」
「いいえ。デュラックさんでなく、あなたがいらしたのでリーノについてお話しただけのことです。実を言うと、私とリーノが担当していたデュラックさんの調査は終了しましした。今日は個人としてお伺いしたわけです」
アガートは客にお茶をいれるためにポットをとった。それは彼女の不得手な作業で、ぎこちなさを悟られないよう注意深くやる必要があった。
「勤務以外の目的にホスト・コンピュータを使用してますね、ミス・マイエル」
お茶を注ぐ手が震えたかも知れない。思わず感覚補助機を動かしてしまった。
「私はそういうことを見咎める地位にはおりません。まして、不正使用の事実を知ったのは調査終了後、自分の権限を無視してあなた方のことを調べたからなのです」
「そんなにいけないことかしら」
隠しだては無意味なようだった。邪魔をさせないためにはどうするべきだろうか。
「ラキップは私たちに借りがあるんだわ。そうは思わない?」
「その通りです、ミス・マイエル。ラキップはあなた方にバイオ・インターフェースを移植した。そのノウハウはゲームやミニ・トリップに応用され、大した利益を上げている。あなた方のほうは記憶を奪われ、多元的システム開発の資料に埋もれるままにされていた。リーノは当然の権利を主張したに過ぎない」
「私は過去には興味はないわ。記憶にないことは、なかったことと同じじゃない?」
「ラキップがあなた方に施した実験や訓練は苦痛を伴うものでした。記憶を消したのは、それが人格の形成に悪影響を及ぼすというのが表向きの理由だ。欺瞞ですよ。自分たちの行為の非人間性を隠したかったんだ」
「どうでもいいことよ。少なくとも、今の私たちにとっては重要なことじゃないわ。問題は時間なの……」
「時間?」
「機械に接続しているときの真白で曇りのない時間が、私たちのリアル・タイムなの。惨めで独りぽっちの自由な世界だわ。現実の時間には家があってサヤンがいるけど、頭が半分麻痺したみたいに、そこでは不自由なの」
チャプナイの表情には戸惑いが現れていた。彼の主張する正義には、アガートはまったく興味がないらしい。
「ホスト・コンピュータは私たち自身のために使うの。誰にも迷惑はかけないわ」
「……私は不正使用のことを敢えて担当部門に通報しました。黙って見ていられなかったからです。それなのに彼らは動こうとしない。ことの重大さをいくら説明しても駄目で、使用領域は微々たるものだとか何か、そんなことばかり言って、一向に手を打とうとしない」
「どういうことなの」
「プログラム・リストを読ませていただいて、製作者の意図はだいたい飲みこめました。素人がプログラミング支援ツールもなしにやったにしては、いいできと言えるでしょう。しかし、初歩的なミスがある。アクセスしたら最後、抜け出すことができない。エンド・コマンドを与える経路が遮断されてしまうんです。これが機械の端末なら手段もあるが、末端にバイオ・インターフェースがきているとなると……」
「どうなるの……」
「脳に損傷を与えてしまいます。アクセスを続けるしかない」
「嘘よ……」
アガートは周囲を見まわすようにしながら立ち上がり、後ずさった。見えない瞳が、初めてそれらしい不自然な動きを見せた。
「嘘よ! 邪魔しないで!」
彷徨うように揺れながら部屋の奥へと退き、かつてはドアがあったらしい部分に下がったカーテンの向こうに消えた。チャプナイもゆるゆると立ち上がる。不思議な既視感がアガートの後を追うのを躇わせていた。
「サヤン……サヤン……」
小さいが、叫んでいるといってよい調子の声だ。チャプナイはカーテンに歩み寄り、思い切って部屋の境界を越えた。
女がベッドに横たわる男の脈をとっていた。
「どこも異常ないわ」
「遅かった。ミスタ・デュラックはもう……」
「ゲームにアクセスしているときより安定しているくらいよ」
しかし、アガートの手は震えていた。彼女は片手でサヤンの手を握ったまま、ベッドの上にあるもう一本のコードをとり上げた。
「何をするんです」
「邪魔しないで! 嘘に決まってるわ。ホストを使うのに莫大な費用がかかることくらい知ってるんだから――あなたは、止めさせにきただけなんでしょう!」
アガートは髪を掻き上げ、コードを自分のインターフェースに差しこみ、サヤンの枕元にある小さな薬袋に手をのばした。
「やめるんだ」
チャプナイは女の腕をつかんだ。彼女は抵抗したが驚くほど非力だった。
「サヤンに後から行くって約束したのよ!だから邪魔しないで」
アガートのもう一方の手がいつのまにかサヤンの手首を離れ、何か黒いものをもっていた。それが閃光を放った瞬間、チャプナイは腰骨の辺りに鋭いショックを感じた。
「放っておいて!」
チャプナイは床に両膝を落としていた。痛みのある箇所を押えると感覚がない。アガートを見ると、薬をあおってサヤンの脇に横たわるところだ。
「戻れなくなるぞ……」
アガートの姿が霞んでいく。痺れが全身に広がるのを感じながら、彼は床に崩れ落ちていった。
15
気がつくと、空が見えた。点滴の瓶が視界の脇に天からぶら下がっている。道端の移動寝台の上に彼は寝かされていた。
「意識が戻ったようです」
その声とともに、白衣を着た男が顔を覗きこんだ。無遠慮に彼の瞼を指で開き、ペンライトの光を当てた。
「護身用の麻酔銃で射たれたんです。もう大丈夫ですよ」
そう言った白衣の男を押し退けるようにして、警官の制服が前に出てきた。
「チャプナイ・ラームさんですね」
チャプナイが上半身を起こすと、また白衣の男がしゃしゃり出て彼の身体を支えた。ビル街に救急車とパトロール・カーが止まっている。彼は自分がまだデュラック・サヤンの家の前にいることにやっと気づいた。
「ラックマンの通報で我々が駆けつけると、あなたとあの2人が意識を失っていました。詳しい事情を話していただけませんか?」
「ラックマン……」
「あれは麻酔銃の発射音のような異常な音なら、百メートル先からでもキャッチするようにできてます」
「2人は――彼らを動かしちゃ駄目だ……」
「大丈夫ですよ、チャプナイさん。ネットワーク・ゲームやミニ・トリップの事故はきわめて希だが、救急隊員はちゃんと心得ている。もうラキップ社のスタッフが来て、彼らの様子を診ています」
無駄なことだ、とチャプナイは思った。彼らを助けるどころか、あの端末機から引き離すこともできまい。何か良い手立てが見つかるまでは、あのままアクセスを続けさせておくしかあるまい。それまではホスト・コンピュータの不正使用も容認せざるを得ないだろう。膨大な浪費だ。チャプナイの警告を軽視したエンジニアは処罰されるだろう。それで、すべてが片付く。デルクセンのときと同じように……。
「日を改めてでも結構ですよ、チャプナイさん。加害者らしいマイエルはあの状態ですし、我々としても急ぐ必要はありません。このまま一旦病院に行かれて念のため検査を受けてください」
移動寝台が低い音を立てて救急車に向かって動き始めると、サングラスをかけた背広姿の男がチャプナイに近づいてきた。ジーベン・ジャックだった。
「気分はどうだ?」
「最低です。彼らはどうなります?」
「医療福祉局の金で看護型のラックマンがつくことになるだろうな。脳を傷つけずにアクセスを断つ方法が見つかるまで、医学的に生命を維持するしか、やることはない」
ジーベン・ジャックはチャプナイといっしょに救急車に乗りこんだ。音もなくドアが閉じ、滑るように車が走り出した。
「リーノと違って、今度の場合はやっかいだな……。マスコミはネットワーク・ゲームの事故と混同するかも知れん……」
「彼らにとっては、リーノよりはずっとましですよ、ジーベン・ジャック。あのプログラムは2人の意識を結びつけることには成功しているはずだ」
お互いの感触、お互いの意識。それだけは失われることはない。絶対無のなかの二つの意識……。その考えにチャプナイは眩暈を感じた。
それにひきかえ、リーノの失ったのは世界そのものである。彼女が自分の過去の代償として手に入れたのは、永遠の孤独、繰り返されるシナプスの結合パターン、無限に循環するアルゴリズムだ。
「ウムベルト・プランの企画者たちは、目的を果たしたのかもしれませんね。サヤンとアガートが今体験している世界は、誰も知らない――誰も味わったことのない世界なんですから」
ジーベン・ジャックは故意にチャプナイを無視し、窓の向こうを眺めている。チャプナイの言ったことを皮肉ととったらしかった。
「彼らは自分たちの暮らしている世界に馴染んではいなかった。望んだ世界を手に入れたんです。彼らにしてみれば、そこから戻ってこれないということは、大した問題じゃないかも知れない」
「とにかく……」ジーベン・ジャックは彼の喋るのを遮るように言った。
我々のほうはどうだろうか? チャプナイは、ふとそんな想いをいだいた。
「君のとった行動は適確だったよ。マシン・センターの連中に任せておかなったのは正しい判断だった。勤務査定にはよい影響を与えるだろう」
この世界はどれほど我々向きにできているだろうか。
チャプナイは車の窓の風景を眺めながら、考え続けた。やがて、リーノのいる病院の白いビルが見え始めた。
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