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 愛というものは、しばしば妄執に似たものになる。
 愛はすばらしいが、妄執は醜い、と考えるのは正しいのだろうか? 私には、わからない。そもそも、このふたつは区別可能だろうか。
 愛も妄執も現実に遮られる。もし、これを遮る現実がなかったら、それはどのようなものになるのだろう。
 この作品の背景世界を舞台として、私はほかにふたつの作品を書いている。妙なことだが、私は自分で書いた作品よりも、この世界の方が気に入ってしまったようだ。


残 響

 〈月の谷〉では、季節は果てもなく同じ彩りを繰り返す。人々は自分たちの生すら、永遠に寄せては返す波のしぶきの一瞬の輝きになぞらえる。私たちの生涯は、ゆりかごから六角獣を追うのを見ることに始まり、臨終の床で六角獣を追うのを見ることに終わる。私たちにとっては〈月の谷〉がすべてであり、この世界の外に思いを巡らす者は希である。
 氏族のなかでは、私だけが〈月の谷〉の外の世界に思い出をいだいている。
 三の風月、祖先の魂を慰めに一族がこぞって僧の村を訪れるとき、私は皆のもとを離れ、私と同じく、逝ける思い出に祈りを捧げる僧の祠へと赴く。
 逝ける思い出を一族の財とするために、その物語を語ることにしょう。


 私が〈月の谷〉を出たのは、生まれてから24番目の月を迎えたころ、一度きりのことだった。
 その年の1の風月、海から毎年のように訪れる嵐が例年になく荒れ狂い、一族の唯一の生活の糧である六角獣の多くを死に追いやった。1の花月が訪れると、一族のおもだった若者たちは野生の六角獣を捕らえるために〈熱の方位〉に苦しい旅をしたが、成果ははかばかしいものではなかった。
 3の雨月、天の商人たちがやってきた。季節はずれの訪問だった。彼らは私たちの窮状を見て、六角獣の取引のかわりに、ひとつの契約を申し出た。
 天の商人たちは向こう5年分の食糧を私たちに保障し、さらに野生の六角獣のいる場所を探してくれる。そして、その代償は一族の者を一人、彼らの世界に連れ出すことだった。
 「〈月の谷〉をで出る若者は、必ずあなた方のもとに戻されます。亜光速飛行と人工冬眠が及ぼす効果によって、若者の時間はゆっくりと過ぎるのです。彼がもどるのは標準暦で百五十年後になりますが、彼自身にとってはたった10年の旅に過ぎません」
 長老たちの前で説明に立った男は、契約による一族の負担を正しく伝えようと懸命だった。長老たちは3日間の討議会ののち、契約に応じることを決め、彼の努力は報われた。だが、それは長老たちが彼の説明を理解したからというよりも、彼の心に触れて、彼の誠意を確認したからだった。
 そして、私が選ばれた。
 理由は私が初潮を迎えたばかりの少女だったからだ。
 人の心に触れる力がもっとも強いのは、初潮を迎える前後の少女だ。天の商人たちは〈月の谷〉の一族の、まさにその能力を求めて契約を申し出ていたのだ。
 出発の日どりが決まると、父は私を連れだって〈寒の方位〉に向かい、僧たちの村を訪れた。
 父は、険しい岩山に穿たれた多くの洞窟の一つの入り口に立ち、言った。
 「私はスード氏族、カラカム家のインカケルである。スード氏族、カラカム家のニンファーの魂を預けににやってきた」
 返事がかえってくるまで、しばらくの間があった。やがて洞窟の奥から甲高い声が私たち二人の心に直接語りかけてきた。
 《カラカムのインカケルよ、ニンファーとは、その娘の名か》
 「然り」
 《その娘は臨終の時を迎えているようには見えぬ。生者のペルソナを何故預けようとするのか》
 父は姿を見せない僧に、天の商人たちとの契約のことを語った。自分の生あるあいだに、愛娘と二度とまみえることがないであろうことも。
 《インカケルよ、我らは生者のペルソナを預からない。しかし、事情を汲んで生者のペルソナを預かった前例があることも確かだ》
 「知っている」
 《それでは、娘を進ませよ》
 父に促されて入った洞窟のなかには二人の僧の姿があった。闇のなかで彼らの顔までは見えない。
 「カラカムのインカケルの娘、ニンファーだな」
 その声は洞窟に長く反響した。永遠を思わせるほど長く……遠く……
 「目を閉じよ」
 うすぼんやりと浮かんでいた僧たちの姿がかき消え、あたりが漆黒の闇に満たされたのは、目を閉じたためばかりではない。僧たちの開かれた思念が、私のまわりから一切の心の壁を取り去っていく。私は、自分が多くのペルソナに周囲を取り巻かれていることを感じていた。
 僧たちが代々受け継いできた古い死者のペルソナ。今は詣でる者もない子孫の絶えた家族のペルソナ。つい最近、風月の嵐で死んだ若者のペルソナ。
 そこで私が感じたものの最後は、多くのペルソナに導かれて僧たちの指し示す方に歩む私自身のペルソナだった。


 私を乗せた天の商人たちの船は、やがて虚空に浮かぶ巨大な都市に着いた。
 そこには、いくつもの船が出入りし、気が遠くなるほど多くの人々がいた。私は彼らが港と呼ぶ施設の片隅で乗り換える船を待つあいだ、前を過ぎる人々の心に触れてみた。
 さまざまな心の色。急ぐ心、浮き立つ心、暗く沈む心……。〈月の谷〉の人々の心に似たところはまったくない。外の世界の人々の心の蠢きは、一族のそれに比べれば、はるかに強く、激しい。
 その港で乗り換える船に、私を待つ者がいた。
 「ニンファー・カラカムだね。私はナイジェル・ロンドル。ジェルと呼んでくれ」
 自分の船室を探す私に声をかけたのは、痩せた若い男だった。後ろに背の低い黒い髪の女を従えている。
 「彼女はセルマ。セルマ・バシカ・スード」
 「スード……?」
 「そうだよ。〈月の谷〉のスード氏族だ」
 《私は、スード氏族、バシカ家のセルマ……あなたはカラカム家のニンファー……》
 彼女の声はしみいるように私の心に響いた。その瞳はまっすぐに私を見つめたまま涙を湛えている。
 バシカ――その家の名は、確かに私の記憶にあった。〈月の谷〉の家譜によれば、それはもっとも古い一族の一つであるが、その血統はとうに絶えていた。
 セルマは男を押し退けて私の前に進み出た。
 《同じ氏族。私と同じ血》
 私に抱きつくと同時に、彼女の想いが走馬燈のように私をめぐる――
 その孤独の永遠の長さに震える心。繰り返しよみがえる肉親との別れの風景。すべてが風月の嵐のような激しさで、彼女を未来へと押し流していく。
 「セルマは契約にしたがって10年を我々のために働いて過ごした」ジェルが宥めるように私たちに話しかけた。「〈月の谷〉の暦では約190年に相当する期間だ。彼女の契約期間は今度の航海で終わる。君が彼女の仕事を引き継ぐんだ」
 「ごめんなさい……」セルマが初めて本物の声を出して言った。「怖がらせたみたいね」
 「あとは任せるよ、セルマ。私はアンビルの寄港地を確認する」
 ジェルは私たちを残して部屋を出ていった。
 「私の仕事って何?」
 セルマはその問いには答えずに、私を抱いた腕をやっとほどいて言った。
 「僧たちはバシカの一族のペルソナを今でも守ってくれてるかしら……」
 「僧は一度預けられたペルソナを放り出したりしないわ」
 「すべてが変わっていくのをこの目で見てきた。〈月の谷〉だけが昔のままだなんて信じられない気がするの……。それじゃ、私のペルソナも守られているのね……」
 「あなたのペルソナ?」
 「〈月の谷〉を離れるとき、一族が長老たちに諮って私のペルソナを僧たちに預けたの。私が帰る時には、私を知る者は誰もいなくなってるはず……だから、私は死んだも同然だった」
 彼女は〈月の谷〉では、すでに黄泉の世界の住人なのだった。私は、自分のペルソナも僧に預けられたことをセルマに言わなかった。


 セルマは旅の年月の長さにもかかわらず、〈月の谷〉の習慣を守って生活していた。床に直接腰を下ろし、食事の後には背筋を伸ばして瞑黙する。彼女は私を妹のように扱い、昔話を聞かせるように〈月の谷〉の外の世界のことを話して聞かせた。
 「ナイジェル・ロンドルは会社の一員。彼が私たちの面倒をみるのは、それが大カンパニの命令だから」
 「カンパニって?」
 「人々の集まり……組織、機構。ある点では氏族に似てるわ。ただ、所属する人に血の繋がりはなくて、それぞれがはっきりした目的のために作られているの。ジェルのカンパニは〈天の商人〉の集まり。たくさんの船をもっていて、世界から別の世界へといろいろなものを運ぶのよ。ずっと昔からある古いカンパニなの。〈月の谷〉の歴史より古いっていった人がいたわ」
 「彼は、ずっといっしょなの?」
 「いいえ、カンパニの人は港をひとつふたつ巡るだけ。彼らはすぐに自分の世界に戻るのよ」
 言葉の最後のほうは、深い嘆きの響きをともなっていた。私は、彼女の心に永く湛えられた寂しさを分かち合おうと、彼女の心に触れた。
 深く静かな悲しみ |その悲しみの背後に、愛する者との永遠の距離を嘆く心があった。
 希望と絶望、激しさとやさしさが入り交じり、宇宙を見つめている。
 私は負けない……
 あの人に会えない……
 私は負けない……
 あの人に会えない……
 《好きな人がいたの……?》私はそっとセルマの心に触れる。
 あの人のため……
 あの人の宇宙……これがあの人の宇宙
 そのとき、私の感じていたセルマの影が揺れ、彼女の心とは別の何かが――彼女と重なり合っていた、 別のもっと激しい何かが動いた
 《セルマじゃない……あなたは誰!?》
 「セルマ!! アンビルが――」私は、はっとして振り返った。ジェルが船室の戸口に立っていた。
 「アンビルが予定の航路を変更した。無許可の航路変更だ」
 セルマが驚いた顔をジェルに返した。
 「目的地さえわからないんだ。何かの事故かも知れない。今、確認を急がせているところだ」
 「私にできることは……」
 「引継ぎを続けてくれ……。ことによると無駄になるかも知れないが」
 ジェルは飛び跳ねるようにして部屋を出ていった。
 《アンビルって誰。引継ぎが無駄になるってどういうこと?》
 私の疑問は声になる前に、セルマに向かっていた。
 「長い話なのよ、ニンファー。私の旅なんて比較にならないくらい、気が遠くなるほどの昔に始まったことなの……」
 セルマは棚の扉を開け、そこから紙の綴を取り出して床の上に置くと、私と向かい合った。
 「六角獣の綿毛から作られる紙とは違うの。天の商人たちは鉱物の繊維結晶から同じようなものを作るけど、それとも違って、これは植物からとった繊維からできてるの。何百年も昔の技術で作られたもので、私たちが今出会っていることも、同じくらい古いのよ」
 彼女は筆記具を取り出すと、真っ白な紙の上に私には理解できない美しい文字を書き連ねた。
 「あなたはこれを覚えなくちゃならないわ。この文字で手紙を書けるようにならなくてはね」
 「手紙を書くの? これが私たちの仕事?」
 「そう。ジャック・アンビルへの手紙を書くのよ」


 セルマは静かに目を伏せ、ジャック・アンビルの物語を語り始めた。
 彼は、天の商人たちの船を操る宙航士。それも、誰よりも古く、遥かな過去から船に乗り込んでいる宙航士だった。
 彼が宙航士になった時代は、人々が共通の故郷から旅立って、星々に生活の地歩を固め、彼らのあいだに交易が始まったころだったという。
 「普通、船のクルーは二、三度の航海で船を降りるわ。そうしないと自分の生まれ育った世界がすっかり変わってしまうから、地上の生活に再適応するのが難しくなるの。それで一財産築けるし……でも」
 アンビルは違った。彼は、自分が生きる場所として宇宙を求めた。
 「アンビルは家族も恋人も捨てて、そのかわりに、この上ない孤独と危険を選んだの」
 「故郷を憎む理由があったのかしら……」
 「彼の気持ちを理解することは、私たちにはとても難しい……。わかることは、私たちが故郷を思うのと同じくらいに、彼は宇宙を望んでいたということ。そして、今も地上にもどっていないの……」
 セルマはさっきの白い紙を指して続けた。
 「私の役目は、アンビルに捨てられた人の想いを代弁すること。彼を愛して、彼の後をどこまでもついていこうとして、それができなかった人の想いを彼に伝えること」
 「これは、そのための手紙? あ……」
 セルマは自分の心の深い部分を私に開いて見せた。そこには、ひっそりと一人の若い女のペルソナが佇んでいた。
 白いドレスからのぞく肩に、黄金色に輝く豊かな髪がかかっている。透けるように白い肌とたおやかな細い手足。憂いと微笑みを同時に湛えた表情のなかの緑色の瞳は、遥かな宇宙に向けられている。
 「彼女はレファンダ。アンビルを愛した人」
 「セルマ、あなたはペルソナを……」
 「レファンダは天の商人たちの大カンパニを継ぐはずだった……彼女の母親がカンパニの長だったから。でも彼女は富のいっさいを捨ててアンビルを追ったわ」
 アンビルも彼女を愛していた。しかし、彼は愛する人との絆を欲しなかった。それは、檻のような空虚な世界に、彼を縛りつけておくための誘惑に満ちた陰謀だった。
 富さえ、同じことだった。人は何か大事なものを手に入れれば、それを失わないことに心を奪われるものだ。富や愛情はそうやって人を殺す。緩慢に、しかし確実に――そして、アンビルはレファンダを捨て、宇宙を選んだ。
 「レファンダは大カンパニに関する権利のいっさいを放棄して、そのかわりカンパニの船でアンビルを追う権利を手に入れたの。そのころ、船に乗れるのは厳しい適性・能力検査に合格した者だけだった。彼女はすべてを投げ出すことによって、あらゆる規則を曲げさせたの」
 私はいつのまにか、セルマの語る異邦の愛の物語に引きこまれていた。レファンダの悲しい情熱は私の胸を激しく打った。
 「そんなにまでしたのに、レファンダはアンビルに会えなかったの? 会う前に死んでしまったの」
 「……レファンダがアンビルを追ったのは、彼に会うためじゃなかったのよ」  「それじゃなぜ――」
 「彼女は待つためにアンビルを追ったんだわ。アンビルの航行プランが彼女の航行プランになった。といっても、乗り込む船の目的地はまったく別。彼と同じだけの時間を船に乗って過ごすのが、彼女の目的だった。この世の誰よりもゆっくりと流れるアンビルの時間を、彼女は自分のものにしようとしたのよ。レファンダは、恋人と同じ時、同じ世界を生きる道を選んだの」
 私はそのとき、薄暗い船室に佇むセルマの影にレファンダを見た。
 暗い船室のレファンダ。自らに課した永遠とも思える無音の時の流れ。
 彼女の胸は、ときに悲しみに沈み、ときに恋人への想いにうち震える。枕を涙に濡らした眠りから目覚めるとき、彼女は古風な便箋の一枚を破りとり、青いインクで尽きぬ想いを文字に託す。
 想いのすべてを告げることはできない。恋人が選びとった道を歩むのを妨げてはならない。ただ世界の片隅に、アンビルと同じ時を生きている自分の存在を知らせるだけの手紙でなくてはならない。
 手紙は船の寄港地でカンパニの事務所に預けられる。レファンダとカンパニとの契約によって、それはアンビルの寄港地に運ばれ、受け手の訪れを待ち続ける。十年、十五年、ときには数十年ののち、古びた手紙は少しも変わらぬレファンダの想いを乗せたまま、アンビルの元に届く。
 「レファンダは船で五年を過ごして死んだの……。単純な呼吸器疾患だった。そのころの天の商人たちの船には乗組員の病気に対処できるような設備がなかった……。意識を失ったまま人工冬眠措置を施されて、寄港地に着いたころにはどんな技術も救えない状態だった。彼女は自分の運命を知って、〈月の谷〉の一族の者を呼び寄せるよう大カンパニに依頼したのよ」
 「自分のペルソナを保存するために……でも、それは――」
 死にかけたレファンダの枕元に立つセルマがいる。凍りついた愛とともに横たわるレファンダを見て、セルマは怯えた。
 《あなたは……誰?》
 《私はセルマ。〈月の谷〉のセルマ・バシカ・スード》
 突然大きく揺れた脳波計のウェーブを見て周囲がざわめいた。
 《間に合ったのね。さあ、私をあなたのなかへ……》
 《ペルソナを? それは禁じられているわ。私は僧じゃない。僧だけがペルソナを保存できるの》
 《私をあなたのなかへ》
 《〈月の谷〉に帰れなくなる。帰れば、僧になるしかなくなるわ。夫も得られずに、一生を洞窟の祭壇の前で過ごさなきゃならなくなる》
 《あなたの契約が終われば、〈月の谷〉と新しい契約を結んで、ペルソナは別の人が引き継ぐわ。〈月の谷〉へは一人で帰ればいい……さあ、私をあなたのなかへ》
 レファンダの短い生涯のイメージがセルマに降りそそいだ。一の雪月の細雪のように。
 「いのちの願いには、いのちをもって応えなければならない……私はあのときも、そうするべきだと思ったの」
 〈月の谷〉の古い諺だった。彼女は掟を破ったが、それは〈月の谷〉の人々の生き方を守ったからだった。私は、彼女を非難する気にはなれなかった。
 「セルマ、ニンファー」扉のほうから私たちに呼びかけたのはジェルだった。彼は困ったような表情で開いた扉に寄りかかっていた。「話さなくてはならないことがある」
 「アンビルの行方がわかったの?」セルマが尋ねた。
 「ああ。彼の船は緊急避難を理由にβ−12に向かっている。つまり、この船の目的地だ」
 「緊急避難?」
 「詳細はわからないが、通常航行用エンジンの誤作動があったらしい。そのときクルーの誰かが船外作業中だったんだ」
 「命にかかわる事故なの」
 「許容量以上の放射能を浴びたことは十分に想像がつく。それより、問題はアンビルの船が、近くに治療施設のある港がありながら、航行命令に逆らってβ−12に航路をとっていることだ」
 「彼は、レファンダが乗っていることになってる船を知っているのよ!! 航行プラン・データ・ベースを使えば、行き先だってわかるわ。アンビルはレファンダに会おうとしている」
 「そうだ。そしておそらく、事故に会ったのは彼自身だ。治療を受けても無駄だと判断したんだろう」
 「ああ、なんてこと……」
 セルマは身を翻して壁に寄りかかった。彼女の心の声が私に伝わる。
 《これで、あなたの勝ちってことなの……教えて、レファンダ》
 彼女のなかのレファンダは応えない。
 「セルマ、選択肢はいくつかある。一つはβ−12に着いてもアンビルを無視して、彼には連絡をとらないことだ。しかし、もしここにレファンダがいれば、けしてそんなふうにはしないだろう……。もう一つは――」
 「アンビルに会うのね……」
 「彼をごまかし続けられるだろうか? 君たちのあの力で」
 「ごまかしたりはしないわ」セルマは独り言のように、しかしきっぱりと言い放った。「彼はレファンダその人に会うのよ」


 その日から、セルマは食事の量をしだいに減らし、一日の大半を床に座ったまま瞑目して過ごした。じっと手足を組んだ姿勢を崩さず、心もかたく閉ざしている。ときどき、ジェルがそんな彼女を心配して船室を訪れ、話しかけるが、彼女の目は閉じられたままだった。  絶食していると気分が晴れやかになる時期がある。天の商人たちの専門家が飢餓恍惚感と呼ぶもので、〈月の谷〉で僧たちが断食するのも心の力を高めるためだ。セルマも食事を断つことによって、アンビルとの出会いに備えているのだ。
 私はジェルにそう言って彼を安心させようとしたが、実のところセルマが非常に危険な試みに挑んでいることを知っていた。僧たちは上級者の指導のもとに修行するが、それでもときには事故を免れない。彼女は経験者の支援なしで、それをやろうとしている。
 人工冬眠の期間を挟んで4ヶ月もそんな生活を続けたセルマは、誰の目にも危険なほど痩せ細っていった。もはや、座っていることもままならず、横たわったままの瞑目が続く。二日に一度の食事を彼女の口に運んでやるのは、私の役目だった。
 「着いたよ、セルマ」その日、船室を訪れたジェルは彼女の枕元で告げた。「今、船はβ−12の軌道上だ。アンビルは港の病院に収容されている。彼からレファンダ宛てのメッセージが届いた……すぐに会いにきてほしいと――」
 「知ってるわ……」ひさしぶりにセルマは声を発した。以前の彼女とは似ても似つかない皺枯れた声だった。「アンビルはずっとレファンダを呼んでいた……行きましょう、ジェル、ニンファー」
 港の病院のロビー。若い男がジェルと話している。彼はアンビルの船のクルーだ。
 「プログラムミスだった。船長は作業用ポッドでロケット・ノズルの開閉装置を調整していたんだ。噴射を浴びてポッドが半分方たふっとんだよ。彼の手足も1本づつふっとんだ。スーツのサバイバル機能が働いていなければ、即死状態だったろう」
 ジェルが先頭にたって、私たちはアンビルの病室に入った。セルマは私の押す車椅子に乗っている。
 アンビルは彼を生かしている機械の森に囲まれて、そこにいた。見るからに清潔で機能的な病室の中央に、彼のほうが医療機械の一部になったかのような姿で横たわっている。
 「ジャック……来たわよ、私のジャック」
 車椅子のセルマが彼に声をかけると、アンビルは閉じていた目を開き、私たちを見た。その目は半ば生気を失っていたが、意識ははっきりしているようだった。
 「レファンダ……」
 私は、アンビルの耳にセルマの声が届いていないことを知っていた。彼の耳は、もうほとんど用をなしていないのだ。アンビルがとらえたのは、セルマが心で語りかけた声のほうだ。
 《どうして、君を避けてきたんだろう。許してくれ、レファンダ》
 《もういいのよ。あなたは私の願いをかなえてくれたんだから……》
 セルマはレファンダのペルソナの影で、自分を精一杯押し殺していた。私の感じるレファンダの声はやさしく至福に満ちていたが、セルマのほうは極度の緊張に大変な力を費やしているのがわかった。
 《違うんだ、レファンダ。β−12にきたのは、自分が望んでいたことにやっと気づいたからなんだ。昔から君を愛していた。しかし、君を必要だと思ったことはなかった》
 《今は?》
 《宇宙に出れば、何か偉大な――地上ではとうてい出会えない大きな意義をもつ仕事が、どこかで待っていると思っていた。今は、そんなことはどうでもいい。君の愛に応えたい……》
 《もういいの》
 《時間がなくてすまない。私はもうもつまい……》
 《時間は……私がプレゼントするわ……》
 「セルマ!!」
 その事態に気づいたのは私だけだった。セルマの身体が小刻みに震えている。
 「彼のようすがおかしい」ジェルが言った。「意識を失ったようだ」
 アンビルの病状をモニターしていたのだろう。医師らしい男たちが病室に入ってきた。
 「何をしたんだ」医師の一人が叫ぶように言った。「昏睡状態だ。ひどく消耗している」
 「それより、セルマを!」
 車椅子に座ったままぴくりとも動かないセルマを見て、医師の一人が彼女に駆け寄る。彼は大声で病室の外に向かって何事かを指示した。
 私は、そっとセルマの心に触れてみた。セルマは疲れ果て、彼女の意識は闇のように沈みこんでいる。しかし、私は感じていた。彼女のなかでもつれあい、お互いを確かめ合うふたつの心――楽しげに囁き合う恋人たちの残響を。
 《レファンダ……》
 《アンビル……》
 《レファンダ……》
 《アンビル……》


 セルマが港の病院で身体を癒しているあいだに、アンビルは死んだ。あのときから、二度と目を覚まさないままに。
 彼が死んだので、私たちと天の商人の契約は意味を失った。ジェルはセルマが回復したところで、〈月の谷〉への船を用意してくれた。
 セルマが、〈月の谷〉に帰還したら僧になるという決心を私に告げたのは、その船のなかでのことである。
 「私が僧になっても、それを悲しむバシカの一族の者は誰もいないから」と彼女は言った。
 予想外に早く帰還を許された私には、待っていてくれる者がいた。多くの兄弟たち従兄弟たち、長老となった叔父たち。父と母は亡くなっていた。
 私は再び〈月の谷〉の単調な時間のなかに戻り、夫を得、5人の子をなした。六角獣を追い、雪月に備える生活。
 3の風月。一族の者はこぞって僧たちの村を訪ね、僧たちの預かるペルソナを慰める。カラカムの一族のペルソナに詣でたあと、私は皆を先に帰して、セルマがこもる孤独な洞窟に詣でる。
 セルマの守るペルソナは〈月の谷〉にはゆかりのないものだから、私以外に彼女に会いに行く者もない。彼女は私の訪れを喜び、愛し合い囁き合う恋人たちの声を聞かせてくれる。
 私はそのあいだ、〈月の谷〉の幸福で平坦な時間を離れ、外の世界で激しい生を生きる者たちの悲しみと喜びとに、じっと想いを馳せるのだった。
 永く僧たちに受け継がれるであろう異星の恋の残響に、耳を傾けながら……。


COPY RIGHT:六高寺 弦 ROKKOJI Gen
E-MAIL ADRRESS:rkj@ezoya.co.jp

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