Comment今眺めると気に入らないところが多い。端的にいって障害者のことを書いた作品であるが、その主題についての私の考えは書いた当時とずいぶん変わってしまった。とくに結末は気に入らない。 よほど書き直そうと思ったが、そのままにすることにした。書き手の作品に対するスタンスとしては無責任かも知れないが、書いた当時の自分の考えは考えで、ひとつの到達点だったのだと思うことにした。このテーマはいずれまた別の新しい作品で扱いたいと思っている。 |
緑なき丘に立ちて高速地下鉄の窓に自分の姿を映すのは、シローにとって不愉快なことのひとつだった。ぼんやりと澱んだ自分の表情の首ひとつ上、2メートルもの高さに、突き刺すような鋭い目をもつ顔がいくつも並んでいる。たいていの場合、その眼差しは彼には無関心だったが、彼の方は人々の視線に無関心でいられたためしがなかった。 シローと同じハンディー・キャップを背負ってはいても、それを彼ほど目立たせずに暮らせる者もいる。上背も比較的高く、目もとの肉がもう少し薄かったら、彼も他人の目をこれほど気にせずに毎日をおくれたろう。しかし、彼の身長は女性の平均に比してさえ、概ね20センチは低く、まぶたは厚かった。 プラットホームにおりると、彼はまるで荒海にのまれた溺れかかった子供だった。人々は彼の視界を遮るばかりではなく、その歩度の速さで彼を翻弄した。身長から言って、彼の姿は人々の眼に入りにくいはずなのだが、ぶつかりそうになると、皆じつにたくみなステップで彼をかわしてゆくのだった。 職場に通勤を始めたころ、彼は人々の歩く速度に合わせることが皆に迷惑をかけない手段だと心得て、懸命にこれを実行したものだった。しかし、人の肩にぶつかったり鳩尾に顔を押しつけるはめになるのが、彼自身にとって無理なスピードで歩いている自分のせいだとわかるまで、そう時間はかからなかった。普通の人間は、彼が自分の歩度で《安全運転》している限り、彼にぶつかるようなヘマを決してやらないものなのだ。 「ハロー、シロー」頭上から声がした。「仕事はうまくいってる?」 「ハロー、ミナコ」 見上げると、ミナコはいつもの人なつこい微笑みを浮べていた。彼女はひときわ上背があり、ミナコを見るシローの視線の向こうに駅の天井の照明が見えるほどだった。 「シャロンは初めてだったわね」ミナコは傍らにいる茶色い髪をした女をシローに紹介した。ミナコの会社の同僚で最近この地区に越してきたのだという。女はにこやかにシローを見おろしている。善良な、悪意のひとっかけらもない微笑み――しかし、行く先々で何千回、何万回もその同じ微笑みを捧げられる者の気持ちは想像だにできない、――そういう人々が彼に与える微笑みだった。 ミナコがシローを紹介すると、シローも微笑みを返しながら会釈した。そうするのが一番いいということを彼は知っていた。何千回、何万回でも同じ微笑みを返すことが―― 駅前で別れるまでシャロンは一言もしゃべらなかった。 「シャロンはね、とてもはにかみやなの」 「ぼくらは、いつもひとに恥を感じさせる存在なのさ」 「そんな意味じゃないわ」 「そう、君が感じてるような意味じゃない。僕らにどう接していいのかわからないだけなんだ。自然産症の人間と話したことのある人は少ないだろう。そんな機会にでくわした人は、相手の病気のことについての興味を抑えかねるんだ。でも、初対面の相手に病気のことをきくのは、絶対にいけないことだと、みんな思っている。たった今、自分の関心がひきつけられていることを口に出せない。それで、みんなだまりこくるんだ」 「今日は機嫌がわるいのね」 そうだ。確かに今日はどうかしている。高速地下鉄の窓に映る自分の姿にいつになく見入りってしまったのが、悪かったのも知れない。ミナコにこんな話をするのはまったく不当なことだ。思い出せるかぎりで、ミナコとのあいだで自然産症のことが話題になったことはなかったのだから。 「そうだ、機嫌を直してもらうのにいいことを思いついたわ。最高の牛肉とインド産のペッパーを手に入れたの。シャロンが安く買える店を教えてくれたのよ。シローの腕をふるってくれたら、うれしいんだけどな」 料理は神が彼から奪うのを忘れたほとんど唯一の人並以上の能力だった。人を喜ばせることを思いつくこの娘の才能は、いつも感嘆するばかりだ。もちろん、普通の人々がやるように材料と調理方法から瞬時にカロリー計算をしたりすることはできなかったが、彼の料理はいつも人を喜ばせた。 ふたりは次の休日の晩にミナコの家でディナーをとることを約束し、シローの家の前で別れた。シローがミナコの後ろ姿を見やると、彼女の歩調は彼と歩いているときよりもずっと速かった。美しい黒い髪が風をはらんでゆれ、赤いコートが2メートルの長身によく似合っていた。 「君のIQは、この書類によると143もある。リーベイションがうまくいかなかった人々のなかでは、これは最高の部類に入る数字だ」 アラタの口調には威圧感があり、ケイは、いつのまにか自分がかしこまった態度で彼の話を聞いているのに気づいた。それに、あの目だ。鋭く、そして澄んでいる。 「君は通常の補助的な事務労働なら難なくこなせる能力はもっているはずだ。いや、現実にこなしていたと、わたしは考えている」アラタは、話すのとまったく同時に書類に何事か書きつけながら続けた。「君の転職斡旋願いは、これで8度提出されたことになる。もちろん法的には何の問題もない。我々の仕事は君にフィットした仕事と職場を探してやることだし、君の要求がよほど法外で不合理なものでないかぎりは、我々の方で君の要求を拒否することはけっしてあり得ない。わたしの言っていることの意味はわかるね」 アラタは、話し出してから始めてケイの方をちらりと見た。「はい」と彼女は小さな声で言って、うなずいた。 「我々がここに君を呼んだわけを、君の度重なる申し出に対して不満を表明するためだと受けとられては困る。ただ、1年半に8度も転職願いを出す人は希だということは知っておいてもらいたい。そこでだ……」アラタは書いていた書類をもって立ち、ファイル・キャビネットにそれをしまった。どうやらケイとはまったく無関係な書類らしかった。自然産症の人間を相手にすることなど、頭の半分を使えば十分なのだ。まして、後見人抜きで、ケイの理解できる自然な言語だけでことが足りるとなればなおさらだった。職場や学校での伝達の能率を高めるために創造された集約言語は、記号計量論でいう意味密度で自然語の3倍もの量の情報を伝達できる。 「我々としては、もっと君自身の意見を聴きたいのだ。君の提出した書類には、どれにも不満らしい不満が述べられてはいない。だからといって、これといった積極的な希望とかいったものも――わたしが解釈するかぎりでだが――感じられない」 「書いた通りなんです。不満があるとか、そういうのじゃなく、ただ、ちょっと気分をかえたいだけなんです。ですから……」やっと、それだけ口に出しただけでケイはだまってしまった。 「君の勤務態度は真面目そのもので、仕事にも慣れ、積極的になってきたと、君の上司から報告がきてる。人間関係も、とくに問題があるようには考えられないとね。しかし、こういった雇用関係から生じる複雑な問題については、我々には豊富な経験がある。普通の人間にとっては君のような、つまりその……自然産症のようなハンディーを背負っている人の適正な作業負担は、なかなかわかりにくいものなんだ。しはしば払うべき配慮をおろそかにして負担を重くしてしまいがちだし、反対に君らの能力を過少に評価して仕事を任せず、君らの意欲をそいでしまうこともある。そのいずれにせよ、雇用者に悪気はないし、良くしてくれる上司の不利をおそれて被雇用者が不満をうち明けたがらないケースも、ままある。わたしは、君の場合がそのケースに当たると考えているのだが……違うかね?」 アラタは、まっすぐにケイの目を見つめた。ケイは自分の表情が緊張にこわばるのをかくせなかった。アラタは笑みさえ浮べていたのだが……。ああ、いったい、何をどう話せばいいというのだろう。上司のマーロイは親切だし、ケイの仕事には十分以上の配慮を払ってくれている。同僚もみんな自分のことを気遣ってくれる。「あなたはこんな荷物を持っては駄目よ。腰を痛めてしまうわ」「はしごに昇るのは、ぼくらに任せておきな」そして、休憩時間でもコーン・バースト・ボールのような、ケイには目まぐるしくて理解できないスポーツの話題は慎重に避けてくれるのだ。アラタにとって、これらは〈適正な配慮〉の内に入るのだろう。 みんなと同じ仕事がしたいわけではない。ただ、みんなは心のどこかでケイのことを子供のように扱っており、ケイも子供のようにみんなに相対して、援助を受け容れることに慣れている。そして彼女は、子供が大人を恐れるように、みんなを恐れていた。 アラタは結局ケイから質問の回答を引き出すかわりに、彼女に考えをまとめる時間を与えることにした。彼は2週間後、この福祉事務所にもう一度来ることを彼女に提案した。 ケイは、あのオフィスの彼女には大き過ぎる椅子から解放された喜びと、2週間後に再びアラタに会わねばならない憂鬱との両方を携えて事務所を出た。 冬だというのに、街路樹の緑が鮮やかだった。この木は1年中、少しづつ枯葉を落とし、少しづつ新しい芽を吹くよう〈設計〉されていた。ケイは何故だかこの木が好きになれなかった。 その部屋には、半円形のソファーが三つと椅子がひとつ置かれていた。 それは、この部屋でお茶を飲んだり議論をしたりする人々が、お互いを身近に感じるよう配慮されたものだった。しかしそれでも、自然産症患者用のソファーに較べて、集会を主催するカウンセラーの椅子の大きさは目立っていた。 シローがやって来たとき、ソファーには既にふたりの男と3人の女が腰掛けていた。自分用にコーヒーを注いでいると、5人の男女が議論しているのが聞こえた。シローはそのなかにリールがいるのを知り、離れた場所に座って話に加わらないことにした。シローはこの女が苦手だった。彼女は世界と人間を憎んでいる。 「母のほんとの悩みはね、結局わたしのおかげでやっかい者のほうに分類されちゃうってことだったのよ。〈オリジナル〉の子供を産んだ憐れな母親ってことね。わたし普通の学校に通わされたわ。地域の学校にね。わたし自身もそれを望んでるってことにされてたの。でも4歳の子供にいったい何がわかるっていうの」 「でも、俺たちが幼いころから普通の人たちと共同生活する経験を持つってことは必要だよ。お互いがお互いを学ぶという点でね。君のお母さんの意図はよく理解できるな」 「連中がわたしから学んだことと言えば、頭も悪けりゃ身体も満足に動かせない惨めな女の子を『ヌッチ』と呼んではいけないってことくらいよ。そして高学年になると、集約語では『ヌッチ』と言ってもいいということを学ぶのよ」 「そんな人ばかりじゃないわ」レイコという髪の赤い女が落ちついた口調で言った。「多くの人はわたしたちに本当に何が必要なのか、真剣に考えてくれてるわ。この集会だってそうじゃない。わたしたちには援助が必要よ。だけど、できれば自立して生きていきたいっていうわたしたちの気持ちだって、わかってくれる人は大勢いるわ」 「この集会に出ていれば、いつかは人並になれるなんて信じてるわけじゃないでしょうね。『自然産症患者の知能の低さは社会生活をおくる上での欠格を意味するものではない。彼らの教育に普通人に倍する時間をかけてさえやれば、彼らは立派に社会生活に必要な水準の知識を身につけることができる』……まやかしよ! みんなわたしたちには理解できない言葉で考えられた理屈だわ。連中はやっかいなことをしでかさないよう、たしたちを監視していたいだけなんだわ」 「あなたはきっと世界中のリーベイション・システムを破壊しようとする秘密結社をつくるわ。そのうちにね」もうひとりの普段は無口なレニーという女が言った。 「あなたはリーベイションの恩恵を受けて生れたんだから、秘密結社が作られても、入いる資格はないわね」 「リーベイションがなかったら、わたしのIQは50かそこらってとこよ。福祉教育局の言う『立派な社会生活』は不可能ね」 「レニーはわたしたちとは違うのよ。力も反射神経も人並だし、1メートル90センチもあれば、あなたがわたしたちと似た障害を背負っているなんて誰も思わないわ」 「ねえ、リール、あなたが思ってるほど普通の人は外見なんか気にしないものよ」レイコがたしなめるように言った。「リーベイションを憎むのも間違ってるわ。わたしたちが自然産症なのはリーベイションがあるからじゃなくて、リーベイション措置がまだ不完全なせいなんだから……。それに、リーベイションが人類にもたらした恩恵ははかりしれないほど大きいのよ」 「リーベイションの恩恵? どうせ、〈オリジナル〉のためにわざわざ集約語から訳したテキストから仕入れた知識でしょ」 「僕は、このあいだフランク・リーブの伝記を読んだよ。少なくとも、この措置を開発したリーブ自身はリーベイションが解決しうる問題の領域を、かなりかいかぶっていたみたいだ。戦争、暴力的な政変、病疫、飢餓、差別といった問題のすべてが人類の高能力化によって解決されると信じていたらしいよ」 「第3次南北戦争はリーベイション後の世界で起こってるわ。わたしの歴史の知識が正しければね」リールは吐き捨てるように言った。 「さあ、歓談の時間は終わりだ」シローが振り返るとタカ・レインが立っていた。彼はボランティアのカウンセラーで、かつシローたちの教師でもあった。 「今日は学習にはいる前に、紹介する人がいる」 タカ・レインがそう言うと、ドアから女がひとり現れ、落着かない様子でうつむきながらレインの側に立った。 「ミス・ケイコ・スミタだ。昨日、この地区に引越してきたばかりだ。前の職場ではケイと呼ばれていたということなので、ここでも、みんなケイと呼んで欲しいということだ」 ケイはレインに促されて、自己紹介をした。職業は文書ファイル整理の補助をしていて、この地区では別の職種につくことになっていること、年は25歳で両親とは離れて暮らしていること、等など……。シローたちも簡単な自己紹介をして、今日の学習が始まった。 理科と数学はシローには興味がなかったので退屈だった。それが終わると、タカ・レインは、自然産症患者たちの日常のトラブルやちょっとした相談事の聞き役になった。レインに相談することのない者たちは三々五々帰っていった。 シローは帰りがけに、ケイに声をかけた。「ちょっと、家に寄っていかないか。すぐ近くに住んでるんだ。お茶をごちそうするよ」 「いい話ね。わたしもごいっしょして、かまわないかしら?」リールだった。 「ああ、別にかまわないよ。しかし、めずらしいじゃないか」 「さっきの話にあなた、加わろうともしなかったわ。それで、ちょっとあなたの意見を聞きたくなったのよ」 「意見なんか、ないさ。僕はリーベイションの存在する時代に生れた。そして僕の母親が妊娠中に受けたリーベイション措置が、たまたま失敗した。それだけのことだよ」 「あなたの父親はリーベイション技師だったんでしょう。あなたの失敗によって、お父さんのリーベイションに対する考え方に変化が生じたかどうかは、とても興味深いことだわ」 「父は母がかかっていたリーベイション施設の技師だったが、この措置の失敗は100人に3例くらいの割合で必ずおこるものなんだ。べつに、父親がリーベイション技師でなくってもね。父はリーベイション技師で、僕が生れたあともリーベイション技師だった。これで納得したかい」 「自分の職業がこの世に存在しなければ、息子が病人扱いされずにすむはずだったというのは、皮肉な話なんじゃない」 「いいかいリール、自然産症は同じ障害をもつみんなと同様に、僕にとってもひとつの問題だ。だが、唯一の問題じゃない。僕らは人として認められて生きている。そして、生きるってことはいろんな問題を抱えこむってことなんだ。自然産症はそのひとつに過ぎない」 「本当かしらね」そう言ったリールの顔には余裕の笑みが浮かんでいた。シローは、今自分の言ったことを自分でもまったく信じていないことに気づいた。それをリールがすっかり見透かしていることも。それはまったく不愉快な経験だった。 「今日は遠慮するわ、シロー。せいぜい、ケイと自然産症以外の問題について話し合うことね」 「広い家! 怖くならない?」ケイはコートを脱ぎながら天井を見渡していた。 「別に。生れてからずっとここで育ったんだ。入れ物は大きいけど、必要な設備はちゃんと僕のサイズに合せて改装してある。さっき話したミナコが、キッチンを使うと実は腰が痛くなるって告白したことがある」 ケイは小さな声をたてて笑った。「身体が大きいっていうのも、ときには不便なものね」 「幼なじみなんだ、ミナコとは。同じ日に、同じリーベイション施設で生れた仲さ」 「幼なじみって素敵。いっしょに公園に行ったり、ないしょでビルの屋上に昇ったりしたのね」 「そうさ、小さなころから友達で、今でも友達だ。それに、ミナコは途中から僕の先生にもなったんだ。僕は学校の特別混合クラスよりも、彼女からずっとたくさんのことを学んだよ。それはそうと……」シローは熱いお茶の注がれたカップをケイに差し出した。「C−5地区にようこそ。歓迎するよ、ケイ・スミタ」 「ありがとう。ここでなら、わたしうまくやってゆけそうな気がするわ」 「前にいた所じゃ、うまくいかなかったのかい?」 「わたし、何て言ったらいいか……普通の人が怖く思えることがあるの。わたしのことを大事にしてくれるようでいて、実はわたしのことなんか、ちっとも眼中になくって、面倒くさくなったら、ポイとごみ箱に捨てられてしまうような気がするの。でも、やっぱりみんなの親切はどう考えても本物よね。ときどきそれに気がつくと、今度は自分がどうしょうもなく憎らしくなるの」 「でも、この地区には僕らがいる」 「そう、あなたにはミナコもいるわ。仲間がいるって素晴らしい! 前にいた地区では、わたしのほかに小さな男の子がふたりいるっきりだったの。学校を出てからのカウンセリングはいつもひとりだった。わたしこんなふうだから、何度も職場を替えてもらったわ。それで今度、思い切って地区を移ることにしたの」 「見てごらん」シローは窓の方を指さした。「雪がちらつき始めた」 どの地区にも、同じ雪が降るんだわ、と、ケイは思った。雪は全てを覆い尽くしてしまう。ケイの嫌いな街路樹も、憂鬱な気持ちで歩いた職場へ続く歩道も……。 気がつくと、ケイは窓の側に立っており、すぐそばにシローがいた。 「雪を見ると、わたし、気分が安らぐような気がするの。あのリールって人はどうかしら? あの人、いつもあんなふうなの?」 「リールには、二卵性双生児の弟がいた。いっしょに高濃度プールにいったとき、弟は溺れて死んだそうだ」 「その子も自然産症だったのね」 「誤まって、流水プールに落ちたんだよ。自然産症の子供には流れが急すぎたんだ。彼女は、それを半分は自分のせいで、半分はそんなプールを作った普通の人間のせいだと思っている。《満たされざる人々》を知ってるかい?」 「いいえ」 「アラスカに移住しようとして、政府にアラスカとの国交回復を要求しているグループだよ。リールは《満たされざる人々》のメンバーさ」 アラスカはリーベイションを拒否した人々の最後の拠点で、彼らはそこにたてこもって外部との交渉を一切閉ざしたのだった。アメリカ・カナダ連邦は今でもアラスカに対してさまざまな手段を通じた調査を継続している。それは、アラスカの人々がいつの日か破滅的な国土再征服を企てることを警戒してのことだったが、月日がたつにつれて、そこは世界にとって忘れられた土地となっていた。 「結局、同類同士がお互いに干渉し合わずに暮らすのが一番いいというのが、リールの結論なんだ」 「アラスカへゆくことは、政府が認めてないんでしょう?」 「正確には違うよ。アラスカの住民は外の世界の文化――リーベイション文化とか呼んでるらしい――の浸透を極度に恐れているという話だ。たとえ、自然産症患者がアラスカに入れたとしても、アラスカの人々はけっして彼らを受けいれないだろうというのが、政府の見解さ。リールから聞いたところのね」 「リールたちはそう考えていないのね」 「《満たされざる人々》の主張によると、アラスカは『リーベイション文化』によつて圧迫され、強制的に閉じこめられているんだそうだ」 「シロー、あなたは、そのどっちを信じるの?」ケイの目は窓の外の雪を見つめたままだった。雪の積もり始めた通りを青いエレ・カーが、ほとんど音もたてずに走ってゆく。 シローはこたえなかった。どちらも間違いではないのかも知れない。リーベイションによって高能力化された人々とそうでない人々のあいだには、越えられない何か壁のようなものがある。どちらがどちらを拒否してるにせよ、初めからそれぞれが異なった世界を携えて生れてきたようなものなのだ。アラスカは孤立している。だが、アラスカの外の世界で生れた自然産症患者のなかにも、リールやケイのように世界にとけこめない者がいる。それが、理の必然というものなのかも知れない。問題は、この孤立ということであって、どちらが拒否しているかということではないのかもしれない。 「ついでに食事をしていかないか」シローが言った。 「どこか、いいお店を知ってるの?」 「いいや、クッキング・システムはOFFにして、僕がつくるのさ。フライパンと鍋とオーブンでね」 シローの職場は、高速地下鉄で30分ほどの駅を利用するビシネス街のはずれにあった。それは企業や公共団体のために文字データをデジタル信号化する会社で、彼はそこで自然語のパンチを受けもっていた。ヨーロッパとアジアの五つの表音文字と発音記号からつくられた文語集約語のパンチは、この言語をしゃべれない彼にも不可能ではなかったが、ミス・パンチの発生率がどうしても高い上に時間がかかるため、経費がかさみ過ぎるのだ。 彼の机の上にあるタイプライター型のキーボードは、会社が彼のために特別にしつらえたものだった。ほかのパンチャーが使うクレップ式の両面キーボードは彼には複雑すぎて使えなかった。しかし、自然語を扱う限りにおいては、能率の差は文語集約語ほどではなく、自然産症患者が働く会社に政府が与えている一定の税控除が、なんとかその差を埋めることができるのである。 ここしばらくの彼の仕事は20世紀の文学作品の入力で、それは同僚がうらやましがるたのしい仕事だった。 「シロー、『ストライカー』のパンチは今日までの予定だったね」課長のキリヤが尋ねた。 「『ストライカー』は終わって、同じメイ・スン作の『ホイットマンの谷』のパンチに入りました」 「結構、論理チェックAIのエラー・メッセージ数は、ここの所ぐっと減ってるようだよ。君も随分腕を上げたようだ」後ろからキリヤを呼ぶ声がした。キリヤは振り向いて彼を呼んだ社員と集約語で短いやりとりをした。シローには「ジール」とか「ギー」としか聞こえなかったが…… 「ところでシロー、気に障る質問だったら許してほしいのだが、君が集約語をある程度読むことができるというのは本当かね……」 「ええ」と彼は答えた。キリヤが思ってるほどではないにせよ、愉快な質問ではなかった。キリヤはシローが集約語を読めると聞いたとき、まったく信じなかったろう。そして、シローの今の答を聞いて自分の偏見に心を痛めるだろう。 「もちろん学校では習いませんでしたが、友人に教わりました。自然語を読むのより遅いくらいですが、読めないことはありません」シローはキリヤに、彼の予測した悔恨の表情を一瞬読みとった。キリヤは根っからの小心な善人なのだ。 「それでは明日の朝、仕事の前にわたしのオフィスに来てくれないか。ほとんどは自然語なんだが、わずかに集約語が混じっていて、君にぴったりの仕事がある」そう言って、キリヤは自分のオフィスに戻っていった。 帰る道すがらシローはブック・ストアに立ち寄って、本を眺めていた。 彼はペーパー・バックの小説を2冊買うことにし――リラックスできない集約語は文芸書にはほとんど用いられていない――もう1冊、中国人の書いた歴史の本を買おうかどうか迷っていた。 隣の雑誌のコーナーには、若い男ふたりと女ひとりのグループが場所柄に似合わない大きな声で話をしていた。 女は片方の乳房が剥きだしになるシャツを着て乳首を青く塗っており、男のひとりは口の中を真赤に染めていた。彼らの会話は自然語に集約語から造語したスラングをミックスしたもので、自堕落な10代の若者たちに流行りのものだった。 男のひとりがしきりにシローの方を見て、指さしている。シローには彼らの会話がほとんど理解できなかったが、彼は女が『ヌッチ』と2、3度言うのを聞きとった。 シローは彼らの方を見た。にらみつけて恥いらせるつもりであったが、男は大きく見開いた目をそらせもぜず、女は豊かな乳房を振わせて笑った。目を伏せたのはシローの方だった。 シローはペーパー・バックを手に会計を済ませ、足早に店の外に出た。怒りよりも恐怖が先にたっていた。50メートルほど離れてから店の方を振りかえって見ると、あの男女も店を出るところで、今度は女がシローの方を指さしている。 シローはさらに足を速めた。あたりは既に暗くなっていて、建物の高い所に取付けられた大型宣伝用ヴィジョンが、実利的なあるいは猥雑な映像で街を満たし始めている。昼間と違って、すれちがう人々はみな彼をまじまじと珍しげに見た。 シローは急に自分がいるべからざる所にいるような気分がした。さっきの連中がまだ彼をつけていて、しかも彼との距離をつめていることは、彼らの人をはばからない会話がだんだん大きく聞こえてくるのでわかった。 突然、腕がものすごい力でひっぱられるのを感じた。シローは痛みと恐怖で悲鳴をあげたが、その瞬間強力な握力をもつ掌が彼の口を押えつけていた。その力の主はシローを抱えあげたまま路地の奥へと運びこむと、背骨がきしむほど体をビルの壁に叩きつけた。 「OK、ズイリー・ビーグール、ヌッチ、ガー。可愛いぜ、おチビちゃん」表通りのヴィジョンの光がさまざまな色でその男の顔を照らした。真赤な歯が紫や橙色に変化しながら光っていた。「それじゃあヌッチには通じないよ」いつのまにか、乳房を出した女がいた。ふたりがシローの後ろについて彼の注意を引きつけているあいだに、ひとりが先まわり したのだ。畜生! 足ののろい『ヌッチ』を出し抜くなんて、こいつらには簡単なことなんだ。 「カランキ50、降ろしてやりな」もうひとりの男が言った。 「カランキ50はな、おつむの方はお前らヌッチとおんなじようなもんなんだ」そう言いながら、男は地面に降ろされたシローの胸を足下にすると、指輪をはめた拳を彼の喉もとに押しつけた。首筋がチクリと痛んだ。何か薬を射たれたらしい。 「ヌッチの身体はお前より柔らかいぜ、ビッグ・ポット。こんなくにゃくにゃとやってみたいのか」 「ものは人並だっていうじゃねえか」カランキ50が言った。 「ドーリ・ガセノー、カランキ50!」ビッグ・ポットと呼ばれた女が叫んだ。いつのまにか、シローの紙入れからクレジット・チップを取り出している。 「ドーリ・ガセノー、ビッグ・ポット! こいつはいい」カランキ50も叫んだ。 「暗証コードをしゃべらせな、ミリール。どうせヌッチのことだ。トラップ・ワードはないに決まってる」女が言った。「こいつで楽しむのはそれからだ」 「まず、ビッグ・ポットがこいつとやる。それから?」 「その前に、ガガ・ビラン。パルーにしちまおう」 「そうだ、パルーにしちまおう」 そのとき、シローの胸を踏みつけていた男の頭に黒いものが延びた。 ドンという鈍い音がして、男の頭が飛び散った。血がヴィジョンの青い光を浴びて、紫色に光った。 男が崩れ落ちるのと同時に、シローの腕を何者かがつかんだ。 「立って逃げるのよ。はやく!」女の声だった。シローはのろのろと立上がり、女に引きずられるようにして通りに出た。振り向くと、ビック・ポットとカランキ50は倒れた男にすがったままだ。 女は黒い革のジャンプ・スーツに子供用の靴を身につけており、背はシローより低かった。「君も自然産症なのか?」シローは走りながら、やっと声を出した。 「〈オリジナル〉よ!」女は振り返りもせず叫んだ。《満たされざる人々》だ。自分たちのことを〈オリジナル〉と呼ぶ自然産症患者は彼らしかいない。 女はシローの腕をつかみながら走り続け、駅に近い路地に彼を引っぱりこんだ。路地の奥に地下に続く階段があった。「ここまでくれば安全よ」そう言って女はシローを地下室に促した。 テーブルに椅子、小さな旧式の冷蔵庫があるだけの殺風景な部屋だった。軽いテンポの音楽が聞こえている。 「ここはジュニア・バーの裏手なの。物置きだったんだけど、バーの持主がビルのオーナーに無断でわたしたちに貸してくれてるのよ。わたし、フラン・マキタ」 「やつらに何をしたんだ。殺すなんて……」シローの息はまだ荒かった。 「助けられておいて、ご挨拶ね。あんたが連中に引っぱりこまれるところを、わたしが見てなかったらどうなったと思うの? あんた、パルーを圧力注射されて、連中の前で素裸で死ぬまで踊ってるところよ」しゃべりながら、フランはテーブルの上にピストルを置いた。それはひどく旧式のピストルだった。 「こんなものをもつのは法律で禁じられているはずだ」シローは頭が痛むのを感じた。壁に背中を押しつけられたときに打ったのかも知れない。部屋の壁に地図が貼ってあるのがぼんやりと見えた。アラスカの地図だった。 「法律には違反してないわ。これは骨董品なのよ。弾丸もね。弾丸は1ダースで銃と同じくらいの値段だったわ」 「人を射ち殺すのは合法的じゃないだろう」 「パルーを圧力注射することもね。お茶をいれるけど、飲む?」冷蔵庫からフランがコーヒー豆を取り出すとき、豆の缶の横に数丁のピストルが見えた。 「《満たされざる人々》というのは、単に政府に文句を言うだけのグループだと思っていたが……」頭痛がますますひどくなっていた。「最近じゃ武装闘争もやるのか」 「わたしたちが住むべきところに行くためよ」 「アラスカか……。骨董品のピストルをもって、国境を強行突破しようというわけか。僕に知られてもいいのかい?」 フランはテーブルの銃をとり、シローを狙いながら笑った。「これを使うところを、あんた見ちゃったんだから、もう隠そうったって遅いわ。それに、あんたはしゃべらない。〈オリジナル〉は〈オリジナル〉を売ったりしないわ」 シローは、確かに自分がこの事件を警察に訴えるつもりがないことに気づいた。「しかし、僕はやつらにクレジット・チップをとられた。暗証コードは言わなかったが……」 フランがそのあとを続けた。「『吐かせ屋』にかかれば、暗証コードは簡単に引き出せるわ。だから、早いとこ遮断の手続きをとっておくことね」 「やつらはつかまるよ。僕はあれにトラップ・ワードを仕組んでおいたんだ。両面キーボードに手をつっこんだだら、それまでだ」 「ヒュー」フランが口笛を吹いた。「自分のクレジット・チップにトラップ・ワードを組みこめる〈オリジナル〉は、初めて見たわ」 「苦労したよ。おかげでトラップ・ワードを避けて暗証コードを打つのに5分もかかる……。だから、やつらはつかまる。そして路地裏で頭をぶち抜かれている死体について、追求されるんだ」シローはテーブルに顔を伏せた。 「それで『ヌッチ』がやったと白状するわけ? 大丈夫よ。そんなこと誰も信じやしないわ。わたしたちは柔順に微笑んでるだけの無害なチビだと思われてるのよ」 「フラン、頭が痛いんだ……」シローはやっとそう言ってふらりと立ち上がり、そのまま床に尻餅をついた。天井が波のように歪んで見えた。フランが寄ってきて、顔を覗きこんでいる。目にそれぞれ赤と黄色のアイ・シャドーをひいている。唇は黒だ。 さっきからそうだったろうか? 口紅は白っぽかった気もする。黒い革をまとった腕がのびてきて、手がシローの顔に触れた。いかつい手だった。見るとビッグ・ポットの顔があり、シローは悲鳴をあげそうになった。目の前の青い乳首を見つめていると、それは目の形に変化してゆき、青いアイ・シャドーをつけたフランの目に変わった。 シローは自分がミナコの名を呼んでいるような気がしたが、はっきりしなかった。意識が遠のき始めるのと同時に、彼は一瞬、父親の姿を見た。父は幼いミナコの手をひいていた。赤いコートを着たミナコの手を。 最初に目に入ったのは、壁の時計だった。 針が8時半を指している。もう起きなくては。 シローはベッドから起き上がろうとした。身体が鉛のように重い。畜生、何故こんなに疲れを感じるんだ。しかも胸がずきずき痛む。 シローはやっとの思いでベッドにすわる姿勢をとった。喉がひどく乾いていた。 「シロー」声の方を見ると、パジャマ姿のミナコが寝室の戸口に立っていた。 「目が覚めたのね、シロー」彼女は、ほとんどひと跳びでシローの方にかけより、とびこむようにベッドにすわると、彼の手をとった。 「あなた、怪我をしたのよ。助骨に3ヵ所もひびがはいっているの。あなたの友だちのリールっていう人がわたしに連絡をよこして、わたしがあなたをここに運んだの」 「会社に連絡しなくちゃ……。もう8時半だ」シローはようやく自分の身に起ったことを思い出していた。ミナコが彼の両肩にやさしく手を置いて言った。 「いまは夜の8時半なのよ、シロー。あなたはまる2日間、眠っていたの。麻酔が効きすぎてるんだって、リールが言ってたわ」 リール……。あのフランという女が彼女を知っていたのだろう。会社のIDカードかエレ・メモを見れば、僕がリールと同じ地区に住んでいることがわかる。《満たされざる人々》が僕を助けたんだ。だが、麻酔じゃない。僕を襲った連中がのせいだ……。ふと見ると、ミナコがシローを見つめていた。化粧はまったくしていなかった。 「君はこの2日間僕につきっきりだったのか」寝室の戸の向こうにあるソファーの上に、枕と毛布が見えた。 「とても心配だったの……。あなたが怪我をして、こんなに不安になるなんて思わなかったわ。大丈夫だって、リールが言ったのに、わたし……」ミナコの目に涙が光っているのを見て、シローは驚いた。「……小さかったころ、あなたがわたしのように大きくなれないって知ったときも、こんな感じがしたわ。悲しかった……。あなたはいつもわたしといっしょにいて、わたしを守ってくれた。だから、わたしあなたに何でも教えたの。学校の普通のクラスで習うことは、みんな……。でも、あなたにそういうことを教えるのは無理だってわかってからは、祈ったの。わたしの背がもうこれ以上伸びないようにって。毎晩、毎晩、祈ったのよ。それなのに、わたし、普通の女の子よりこんなに大きくなっちゃって……」 ミナコの声はもうほとんど涙声だった。彼女は長い腕をシローの身体にまわし、柔らかな髪をシローの頬に触れさせていた。 「……昔、君がプラスチックのおもちゃをソファーの下にころがしてしまったとき、君はソファーの昇降装置のスイッチを動かして、床との隙間を広げようとしたことがあったね。しかし、君は操作を誤り、ソファーは逆に下がってきてしまった」 「あなたは、そのとき素早くソファーの下に手を入れたわ。センサーが生体反応をキャッチして下降がストップするのを、あなたは知ってたのよ。そのことはわたしも知っていたわ……。だけど、わたしは手を入れるのが怖かった……」 それは古い記憶だった。シローが物心ついてからの記憶のほとんどで、彼はミナコに対して弟のように振舞っていた。この一番古い思い出だけが違っていた。 「わたし勉強したわ。自然産症のこと、リーベイションのこと、福祉教育局のこと。いまでは専門家より詳しいくらいなのよ」 シローはゆっくりとミナコの腕を解こうとした。「こんなことをしちゃ、いけないよ。君はちゃんとした女の子なんだから……」ミナコは身を硬くしてシローの動きに抵抗した。 「あなただってちゃんとした人なのよ、シロー」 誰がこの娘を拒否できるだろう。彼はミナコの腕から手を離し、彼女のうなじに這わせた。ミナコの頬をつたう涙が指に触れる。その涙がシローの呪縛を解いた。 知らず知らずのうちに、塗り潰されていた感情。タブーにとり巻かれ、シローが自ら触れることを許さなかった想い……。それは今や翼を広げ、熱い風のようにシローの身体を駆け巡った。 ミナコは彼をそっと離して、自分の胸に手を当てて目をつぶり、それから服のボタンをひとつひとつ外していった。服の下は裸だった。彼女は自分より小さなシローの手をやさしくとると、豊かな乳房にそれを導いていった。 リール・マミ・アリタはハンド・バッグに忍ばせたショック・ガンの安全レバーを意味もなく動かしていた。こうしていると何となく安心できるのだ。それは掌にはいるほどの大きさの護身用具で、ほぼ3メートル以内の距離で彼女に危害を及ぼそうとする相手を失神させる威力がある。 いっそのこと、こんな大通りに面したカフェーで彼女に待ちぼうけをくわしている相手に、それを使ってやりたたい気分だ。すわると足が地面にとどかなくなる椅子も、彼女の頭の高さで飲物を運ぶウエイター・ロボットも気にくわない。いつも気にいらないことが、今はいっそう気に障った。リールは待たされることが嫌いだった。 5本目の煙草に火をつけたとき、やっと相手が現れた。流行りのロール・カラーの服を着て、襟元から青い色調のアスコット・タイがのぞいている。 「ミス・アリタ、ここを出るんだ。歩きながら話そう」待ちぼうけの抗議さえ許さない、きっぱりした口調で男は言った。リールが椅子から降りるあいまに、彼は足早にカウンターの方へゆき、リールのコーヒーの払いを済ませていた。 「こういう場合――」店の外に出て歩きながらリールが言った。「わたしたちは一体どんな関係を装ったらいいものかしらね、ミスタ・ブール」彼はリールより60センチは背が高かった。「兄妹? 親子? それとも恋人同士?」 「一昨日、シローという男のクレジット・チップを使おうとした男女が逮捕された。スノー・ストリートのアクセサリー・ショップでね。こう言っては君たち〈オリジナル〉に失礼に当たるかも知れないが、驚いたことにあのチップにはトラップ・ワードが組み込まれていたらしい」 そのことはフランから聞いて知っていたが、ブールには話していなかった。リールはあの事件の意味する危険をフランより重視していたので、ブールに伝えるに当たっては慎重を期したのだ。 「警察としては、願ってもない展開だ。彼らは路地で頭を射ち抜かれた男とそのふたりがいつもいっしょだったことを知っていたからね」 地区警察は連中に自白剤を使って易々と事件の様子を吐かせるだろう。危機は目前に迫っている状況だ、とリールは思った。まず、クレジット・チップの本来の持主シロー、傷ついた彼を自宅まで送ったリール、そしてリールの友人としてのフラン。警察はこの〈オリジナル〉の連鎖を見逃さないだろう……。しかし、あのごろつきどもの逮捕からもう2日……「もう2日もたってるわ」 「そう2日もたっている。それなのに、少なくとも1時間前にわたしが確認した限りでは、フランはまだ逮捕されていない。 「警察にも、たまにはドジなのがいるんだわ」 「ミス・アリタ、本気でそう思っているわけではあるまい。フランは今度の件がなくとも、警察に目をつけられる要素は十分にあったはずなんだからな。彼女は、言わば珍しい武器で犯罪を犯した。380ACP弾を発射するピストルでね。たとえ弾頭が粉々に砕けていようと、警察が弾種を判断するのは簡単なことだ。しかも、彼女は銃から排出された薬莢を現場に残してきてしまった」 骨董品のピストルは大半がフランの名義で購入されていたことを、リールは思いだした。 「それなのに、警察はフランを放っておいている。何故かは、わたしにも分らない。しかし、こうなってはフランは危険だ」 「フランを『計画』から外すって言うの? まさか、フランに警察の息がかかっているなんて言いだすんじゃないでしょうね」ああ、人一倍世の中を憎み、リーベイションを憎んでいたフラン。誰よりもアラスカ行を望んでいるフラン・マキタ。 「一昨日まで、彼女はただ自由の身だった。今は地区警察の意志によって自由の身でいられるのだ。この違いがわかるか? ミス・アリタ」 「わからないわね。あなたの言うことは可能性のひとつに過ぎないわ」リールは立ち止まって、ブールのほうに体を向けた。 「とにかく――」彼はリールには一瞥もくれず続けた。「我々には要請がふたつある。ひとつは計画の延期、そしてフラン・マキタをアラスカ行のメンバーから外すことだ。これが容れられなければ、我々は援助を継続できない」それが要請ではなく、強要であることをリールは悟った。 「普通の人間の〈オリジナル〉に対する友情には、いつも限界があるのね。あなたたちも含めて……」 「フランが外されるのは、友情を失ったからではない。彼女は《満たされざる人々》自体が決めた禁を破って用意した武器を持ち歩き、しかも、『計画』の実行が近いと知っていながらトラブルに巻き込まれた。いや、ただ知らぬふりを決めこめば良かったトラブルに、自分から関係したんだ。普通の人間であっても〈オリジナル〉であっても、自らしでかしたことの責任はとるべきだ」そう言いながらブールは後を振り返り、手を振って合図した。エレ・カーが滑るように近づいてブールの傍らで止まり、ドアを開いた。彼は車に乗りこみながら言った。「利口なやり方とは危険を避けることだよ」 「それ、誰かの名言ってわけ?」質問には答えずにブールの車は走り去った。 リールは遠ざかるエレ・カーを見つめながら言った。「武器を持つことは、小さな、それでいてひとつの解決なのよ、ブール。ある種の人間にとってはね……」 ミナコの手をとって往来を歩くことはたのしかったが、シローにとってはまだ勇気を必要とする行為には違いなかった。それはおそらくミナコにとっても同じことだろう。お互いに手をとって歩くことが、ふたりにとっては戦いになるのだ。それが長い人生の戦いの最初のほんのちっぽけな困難であることを、ふたりは承知していた。 シローとミナコは、たった今、地区の家族関係登記局に婚姻届けを出したのである。シローの怪我と結婚とに対して、キリヤは彼に2週間の休暇をくれた。 「シロー……」静かな笑みとともに、ミナコは彼に話しかけた。「わたし、シローとは何でも話せるようになりたかった……」 「今までは違ったのかい」 「例えば、リーベイションの話、自然産症のこと、それに身長の話」シローは声を上げて笑った。「僕の身長は174.5センチ、君のは知ってるよ。202センチくらいだろう。それから、体重は……」 「体重はこれからも秘密にしましょうよ。どうして、それを知ってるの?」 「君の家にある膝屈伸のトレーニング器だよ。ちょっと、使ってみたんだ。僕の身体のサイズに調整してね。そして次に君の家に行ったとき、君用に調整されたトレーニング器の目盛りを見て、僕との差を測ったのさ」 そうやって、話題にするのを避けた上で僕は知りたい数字を手に入れた。僕にもミナコに言い出せないことがあった。ミナコと同じように…… ミナコはまた微笑んだ。そして言った。「話さないことが間違いだって、わたし、わかったの。本当の気持ち、本当の想い……。それを隔ててしまうのは、わたしたち自身がそれを望むからなんだわ。それが心の底からわかったの、あのときに……」彼女は少し顔を赤らめた。 シローの家に帰る途中、ふたりはたくさんの食料品を買いこんだ。 結婚式をしないかわりに、友人を呼んでささやかなパーティーを催すための用意である。ミナコは多くの荷物を持とうとするシローに、スーパーの袋をいくつか渡すよう促した。ミナコの方が力は勝っている。こういうことにも早く慣れなければいけないな、とシローは思った。きっとミナコも同じことを考えているだろう。 シローが料理の腕をふるっているあいだ、早々と訪れた客の相手をミナコがしているのが聞こえた。 広い家ね、うらやましいわ―― よく決心したわね、自然産症の人と結婚するなんて―― それ本当。初耳だわ―― この絵、いい趣味じゃないか。作者はテレプランかい?―― おい、このテーブルやけに高さが低いな―― などなど。やがてシローが招いた背の低い客が三々五々やってくると、例によって自然産症に関する話題はピタリと止んだ。 パーティーが始まり、シローとミナコはお互いを集まった皆に簡単に紹介した。ミナコの同僚の女性が、拍手のなかで花束を彼女に手渡して、それからワインで乾杯した。少なくともここにいる者は皆ふたりを、心から祝福しているように感じられた。ただ、リールはどうだろうか。シローは、ミナコと自分を決定的に結びつけることになったあの事件でリールがしたことに恩義を感じて、彼女をパーティーに招いたのだった。 見ると、リールはみんなから離れて窓の側のソファーにもたれている。シローが近づくのに気づいて、彼女が話しかけてきた。 「まずは、おめでとうと言っておくわ、シロー。冗談でも皮肉でもないわ」日頃のリールらしくない殊勝な口ぶりだった。 「それじゃ、僕もありがとうと言っておくよ」 「あなたが〈オリジナル〉以外の人と結婚すると聞いても、わたしはちっとも驚かなかったわ。あなたはそうやって世界を受けいれてゆく人だから……。あなたは、いつだって解決すべきことは解決し、どうにもならないことは放っておくのよ。そして、そのどちらも受けいれてしまう……。わたしにはとてもできない生き方だわ……」 シローは、リールがこんなことを言うのが不思議な感じがした。彼女は〈オリジナル〉としてこの世界を憎む自分の生き方以外を認めない人間ではなかったか。 「ほめられもせず、苦にもされず……というところさ」 「それ、なに?」 「古い詩の一節だよ。さて、そろそろ次の料理をオーブンから出す時間だ」 「わたしも手伝うわ」 ケイはさっきからミナコに話しかける機会をうかがっていた。ミナコは、彼女から見れば天を突くように大柄な友人たちに取りまかれていて、なかなかケイにそのチャンスを与えてくれなかった。 リールからアラスカに行く計画に参加しないかと言われてから、この数日というもの、ケイは不安にとりつかれていた。何の知識もない別世界に行くことは、それが自分と同じような背丈、同じような知能の持主たちによって築かれた世界であったにしても、やはり不安だった。ケイは自分がリーベイション社会に根ざした存在であることを、まったく突然に悟ったのだ。今までは、その絆の細さばかりが気になっていたのだが……。 ミナコがちらりと自分の方を見たのを、ケイは見てとった。普通の人間と会うときの、あの漠然とした不安、みるみる萎縮してゆく自分を感じる恐怖、ミナコはそういったものを彼女に感じさせなかった。初対面なのに……とケイは思った。シローからミナコの話を聞いたときからそんな予感がしてたわ。何故なのかしら。彼女が自然産症患者と結婚したから? それとも、シローの話がミナコの印象を和らげているのかしら。 「お料理はどう? みんなシローの手作りなのよ」ミナコがやってきてケイに話しかけた。 「シローの料理はいつも最高だって知ってるわ。あなたは料理をしないの?」 「日曜くらいは、キッチン・システムのスイッチを切るわ。でもシローみたいに香辛料からカレー・ソースをつくるのは、ちょっと無理ね」 「ここで暮らすんでしょう。キッチンはどうするの? あなたには低すぎるんでしょう」ミナコは笑みを浮べて言った。「シローが言ったのね。しばらくは、腰が痛くなるのを我慢して、そのうちに流しには昇降機を取付けるわ」 「すべての家に昇降機つきのキッチンがあればいいと思うわ」ケイはミナコの反応を探るように言った。 「『すべてのキッチンに昇降機を!』素晴らしいスローガンだわ。実はね――」ミナコは声を低めて、ケイの耳元でささやいた。「わたしには、前の家にあったキッチンの流しでも低すぎて、台所仕事にはいつも悩まされていたのよ」 「ねえ、ミナコ……アラスカのキッチンはみな低く作られているのかしら」人一倍ノッポの普通の人にアラスカのことをきくなんて、今日は本当にどうかしている。 「キッチンのすべてが低く作られているってことは、あなたにとって大事なことなのね……」ミナコの目はほんの少しの間、あらぬ方向を見つめた。「そうね、きっとアラスカでは流しは低く作られてるわ。あなたの手の届かない棚もない……。あなた、《満たされざる人々》のメンバーなの?」 ケイは首を横に振った。「自然産症患者は誰でもアラスカに興味があるのよ。《満たされざる人々》じゃなくっても……」 「シローもそうかしら……」 「シローはほかの人と違うわ。もちろん、彼だってアラスカには興味があるとは思うわ。わたしが《満たされざる人々》のことを知ったのは、彼から聞いたからなの。でも、あの人はアラスカに憧れたりはしない。」 シローとリールがキッチンからあらわれ、テーブルの皿に料理を盛りつけている。ここはシローとミナコの世界。ふたりはこの世界をまもるための努力を惜しまないだろう。彼らには、その意志と力がある、とケイは思った。 「シロー、気分でも悪いの?」リールの声だった。見ると、シローはテーブルの側に立ちつくしている。ピクリとも動かず、リールにも応えない。彼の視線はやや上を向いて、窓から見え始めた月を凝視しているように見えた。 「シロー……」とケイがつぶやいたときには、ミナコはシローに走り寄っていた。 シローはミナコの腕に抱かれたまま、眠るように崩れ落ちた。 「ミナコに教わったのか? シロー」父は庭先のロッキング・チェアーに座ったまま、シローにたずねた。 幼いシローは角の痛んだ教科書を父にさし出した。ミナコ・カイトと大きな字で名前が書いてある。 「カモシカのことが書いてあるんだ。カモシカは森とか、木のあるところにいるんでしょう? 何故、この地区の公園にはいないのかな? 隣の地区の公園にはいるのに」 父はシローの頭をやさしくなでながら言った。 「シロー、隣の地区の公園にいるのはカモシカじゃないんだ」 シローは不思議そうに父の顔を見つめた。 「カモシカのように見えるが、あれはつくり物だ。子供を蹴飛ばしたり、公園の外に勝手に出て行かないように、大人が造ったものなんだ」 「本物のカモシカは子供を蹴飛ばしたりするの?」 「ときにはね。お前たちが悪さをしたりすれば、蹴飛ばすこともあるだろうよ」 「だから、カモシカは公園にいられないんだね。でも何だか可愛そうだな……」 「危ないものや汚いものは、可愛そうでも公園にはいれないことになっているんだ」父の顔は寂しそうに歪んだ。彼は立ち上がり、家に入っていった。 父の姿が消え、シローはいつのまにか、ミナコと花壇の傍らで遊んでいた。黄色い茎が鮮やかな紫色の花びらを支えている。シローはその紫色の花の一番大きなものを選んで手折り、それをミナコの髪に飾った。ミナコは自分で摘んだ小さな白い花の束を、微笑みながらシローに渡した。 「その花は蜜蜂を呼びよせるのよ」シローの手に触れたまま彼女は言った。「昔は、花はみんな蜜蜂を呼びよせたの」 「ミナコは蜜蜂を見たことがあるの?」 「ないわ」彼女は大人の姿になり、シローを抱き寄せる。「でも、この花をもってどこか遠くにいけば、きっと蜜蜂がやってくるわ」 幼いままのシローはミナコの髪にそっと手をやり、紫色の花をとって、かわりにその白い花をさした。 「ミナコにはこっちの方が似合うよ」やさしい風がミナコの黒く長い髪を踊らせ、白い花と緑の葉がそれと混ざり合った。 シローの視線の向こうに父が立っている。彼はパイプをくわえて、ふたりをにこやかに見守っていた。 麻薬――それは考えられな――残留量からみて、いっさい心配がないくらいの――脳のスキャン結果は――彼が自然産症患者だからって―― 誰が話しているのだろう。ビニールの白いカーテンが見える。ここはどこだろうか。 遺伝子的な走査は現在では胎芽以外は――あなたたちはまさか彼――遺伝的疾患はすべて、リーベイション措置の段階で―― 「ミナコ……」あれは確かにミナコの声だ。ふたりの白衣の男と話している。彼らは医師だろうか? だとしたら、ここは病院だ。 「シロー!」カーテンを破きそうないきおいで開いて、ミナコが彼の枕もとに膝まずいた。「意識がもどったのね。シロー!」 「僕はパーティーの最中におかしくなっちゃったらしいね。あのパーティーの途中から何も覚えていない……」白衣の男のうちのひとりが近よってきくるのが見えた。 「君はまる1日意識がなかったんだ」 「僕は病気なんですか」 男はわずかに困惑の表情を見せた。「たいしたことではないと思うよ。詳しくは奥さんにきいてくれたまえ」ミナコが集約語で男に何か言うと、男は承知したという仕草をして、立ち去っていった。 「わからないって言うのよ」ミナコの口調はめずらしく怒りを含んでいた。「自然産症患者であること以外、かわったことは何もないって、そんな馬鹿なこと!」 「彼らを責めてもしょうがないよ、ミナコ……」 「麻薬を射ってるんじゃないかとも言ってたわ。血液検査のひとつがその可能性を示したって言うの。あなたが麻薬だなんて!」 「父さんの夢を見ていた……。今のままの君と小さいころの僕がいて、父さんは僕らを見て笑ってた。僕は君の髪に花を飾って、それから父さんの方を見ていたんだ。そうしたら君の現実の声が聞こえ始めた。麻薬の話、脳の走査の結果、君の抗議……」 「シロー……」ミナコはシローの頬に手をあて、彼に口づけした。「夢のなかでも、素敵なプレゼントをくれるのね……」はっとして、彼女はシローの顔を見た。 「シロー! さっき先生たちとは、集約語で話してたのよ! ずっと集約語で――自然語は全然使わなかったわ」 「集約語……? まさか……。いや、理解できたのは断片的だった。半分目が覚めてないせいだと……」 ミナコは彼の目をしっかりと見つめ、集約語で短くしゃべった。 「明日……家に帰りたい。僕を連れて……」と、シローはそれを自然語に訳した。ミナコの目は驚きに見開かれている。 「何が起こったんだ、いったいこの僕に……」 ミナコはまた集約語で何か言った。シローが訳した。 「不安、しかし、奇跡かもしれない……。神さまのプレゼント……」 フランは職場に休職願いを出した帰りだった。 昨日、リールは《満たされざる人々》の『計画』関係者の会議にブールたちの申し出を提出した。非〈オリジナル〉からなるあのグループの支援抜きでは、『計画』の成功はおぼつかない。会議の結論はまだ出ていないが、フランがアラスカ行のメンバーから外されるのは決まったようなものだ。 フランは今、ひとつの決意を抱いていた。それは魅力的なアラスカ行のために、最近ではすっかり忘れかけていた、もうひとつの計画だった。もともと、彼女がシュウ・モリモトと親しくなることに同意したのは、この計画のためだったのだ。 高級マンションの建ち並ぶ一角にある、とあるビルのエレベーターを降りると、そこにモリモトが〈愛の巣〉と呼ぶ豪華な一室がある。表向きは、500キロも離れた支社の近くに家を持つモリモトが、本社出張の際に寝泊りするために借りてあるこの部屋は、彼女とモリモトの逢い引きの場所でもあった。 シュウ・モリモトは150以上もの企業を傘下におさめるフォノン財団の幹部社員である。フォノン財団はおよそ政府を除けば、あらゆる意味で最も強力な社会的グループであり、突出した特権的集団に有りがちな独占情報の規模もまた当然巨大なものであると信じられていた。 フランが胸ほどの高さにあるノブをつかんで部屋にはいると、応接室の奥の半開きになったドアの向こうに豪奢なベッドが見える。フランは舌打ちすると、歩みよってそのドアを閉めた。モリモトとの奇妙な情事の記憶は、今は邪魔なだけだ。 モリモトには幼児愛好の癖があり、フォノンの幹部たちの配慮による2度にわたる秘密裡の定位脳手術も、彼からその倒錯を取り除くことができなかった。普通の人間に較べれば12、3も若く見えるフラン・マキタがモリモトの愛人になることは、モリモトとフォノン財団の両方が望んだ解決策なのである。 フランは居間へ通じるもうひとつのドアを開き、部屋の明りをつけた。大型ホロ・グラフ、クレップ式キーボード付きの端末機、椅子にはモリモトのガウンが掛けてあった。 彼女は椅子によじ登るようにして腰かけ、ポケットから1枚の紙をとり出してデスクの上に広げた。そこには、モリモトから聞き出した彼のパスワードと、トラップを避けるための細かなメモが記されている。こんなときのために、クレップ式両面キーボードと集約語についてはさんざん学んできたが、自分の技能が十分とは言えないことを彼女は知っていた。慎重に、しかも素早くことを運ばなければならない。 フランは、まず端末機をプロセッサにセットして、おそるおそる両面キーボードに手を突っ込んだ。幾度も練習したとおりに指を動かすと、ディスプレイにモリモトの一風変わったパスワードが示された。最初に意味のない集約語アルファベットと数字の羅列、つぎに伝説のキマイラをうたった古い詩の数節、そしてまたアルファベット。 端末機をフォノンの中枢AIと接続し、ユーザー・コードを打ち込む。つぎに機械の要求する通りモリモトのパスワードを打ち込んで、フランは大きく肩で深呼吸した。彼女はもう一度パスワードを打たなければならない。これが難関中の難関なのだ。もう一度深く息をするとAIはそれを要求してきた。 AIは詩の一節でパスワードの表出をストップさせた。要求された暗証条件は『4』。モリモトのもつ八つの対応条件数値の4番目が選ばれたわけだ。すなわち、『3』である。切られたパスワードの文字列の最後の3文字がチェックの対象になる。 283もの文字種をもつ集約語のアルファベットは、それぞれ1から283の数値を与えられている。フランは選ばれた3文字をこの数値に置き換え、それぞれに1、2、3を乗じて合計し、さらにその合計数の下1桁が0となるような加算数を算出しなければならない。 持ち時間は1分間。用意は整っている。フランはデスクに広げた紙に視線を走らせた。それには、どんな場合にどのような加算数を入力すればよいかが、ひと目でわかるように表に作製されてあった。フランは表を見ながら、慎重に数値『8』を入力した。 パスワードそのものは二度のミスまで許容されるが、AIの指定した文字列にたいするこのようなチェック・デジットをミス・インプットした場合には、ただちに該当パスワード所有者にたいする回路遮断を招く。パスワードのミスは正当なユーザーでもときおり犯すが、チェック・デジットのそれは、対応条件数値を知らない者か、使い慣れないパスワードを使用した不正なユーザーのミス以外にはまず考えられないからである。普通の人間なら、慣れれば自分のパスワードに附随する入力加算数はほとんど暗記しているので、確認のためにちょっとした検算を頭の中で行なうだけでこのトラップをクリアできるのだ。 フォノン財団のAIが選択メニューを表出し、フランの胸中は言いようのない勝利の感覚で満たされた。自然産症患者として不当にも病人扱いされてきた自分が、大抵の人間に手の届かない巨大な情報源を意のままにすることができると思うと、痛快だった。 彼女は注意深く集約語で書かれたメニューを読み、《任意資料作製》の項目を選択して、5.5テラバイトのメモリー・ボックスを端末に挿入した。 そして最初のキーワードを入力した。《リーベイション》だった。フランは、まる24時間、この作業を続けるつもりでいた。 明日には、ちょっとしたデータ・バンクが完成しているはずだ。そして、明日の晩にはモリモトの好みのフリルの多い子供服を着て、そしらぬ顔で彼を迎えてやろう。彼から奪ったものに報いるために……。 「こいつは退屈過ぎやしないかい? ミナコ」ケーブル・テレビの株式市況を見ながら、シローはキッチンのミナコに話しかけた。 「この時間に集約語で放送しているチャンネルはこれしかないのよ」彼女はそう言いながら、キッチンからやってきて、サワー・グラスをふたつテーブルに置いた。「でも、コーヒー・フロートを飲みながら観るには、ちょっとこの番組はひどいわね」 「だんだん聞きとれるようになってきたよ」少し間を置いて、シローはゆっくりとした集約語で続けた。「気分がものすごくすっきりしている。株式市況のような複雑な数字の関係するニュースが、こんなふうに頭に入ってくるのは始めてだ」 「医者の先生たちに、このことを隠しておいて良かったわ。思ったとおり、あなたの能力は次第に普通の人間に近づいているのよ。彼らに話してたら、たちまち研究材料にされて当分病院から出られなくなるところだった……」 「ああ……。でも何故、思ったとおりなんだい?君はリーベイションのことを随分勉強したって言ってたけど、何か思い当たることでも……」 「むしろ、その逆ね」ミナコはシローのすわっているソファーに腰を降ろして、コーヒー・フロートのアイス・クリームをひと口食べた。ソファーはシローには少し高めで、ミナコには低めなくらいに調節してあった。「遺伝子操作は現在でもいわゆる確率的世界観が100パーセント当てはまる領域なのよ。事象の結びつきが確実な連鎖になればなるほど、物事はわたしたちの通常の生活感覚――因果的関係で捉えられるようになるわ。でもリーベイションに関して言えば、その措置が何故人間の高能力化をもたらすのか、いまだによくわかっていないのよ」 「つまり、予想外の結果が出る可能性はいまだにゼロではない、ということかい?」 「今から25年くらい前が、生化学者の間でリーベイションの成功確率を完全なものにしょうとする努力が頂点に達していた時期なの。彼らは遺伝子中にいくつかの形質決定記号を発見しさえしたわ。しかし、やがて下火になったしまった。結局、研究費用に見合うだけの社会・経済的な効果が得られないという見通しが立ったからなの。このことは当時さかんに騒がれていた新種人類論争の影に隠れて、今でもあまり知られてはいないわ」 「ホモ・ノーブス? リーベイション改良の問題だね。さらに高能力化された人類を創造しようとする計画だ――それなら何かで読んだことがある」 「シローの感想は?」 「今はアラスカで細々と暮らしている人々が、かつてはリーベイションを受けた人々のことをホモ・ノーブスと呼んでいたんだろう? 自然そのままの人類の文明はリーベイションが自分たちにもたらすものを阻止できなかった。しかし、リーベイションを受けた人類には、それが可能だった。いい前例があったからかな?」 「前例ではないわ」ミナコはさめた表情で言った。「人は目の当りにしていたのよ、知能や体力に勝れた人間が劣った人間をどう扱うものかをね。いたわり、保護することはできる。場合によっては自立を助けてやることも……。だけど、シロー、人は世界を自分たちの都合のよいように造るものなの。強力な多数者の暮らしやすいように……」 「……君は《満たされざる人々》の願いは正しいと思うのかい?」 「シロー、それはひとつの選択だわ。でも消極的な選択よ」電話のベルが響いた。ミナコは立ち上がって電話をとり、シローに言った。 「あなたによ、シロー。フラン・マキタという人から」 「何ということもない道だ」パーカーのファスナーを顎のところまで上げながら、ブールが言った。きれいに舗装された道路が針葉樹林のあいだを抜けて、森に突き刺さるように消えていた。「こんなところはほかにも何百箇所もある。しかし通れるところはここだけなんだ」ブールはそう言って、リールたちを少し道から離れた見渡しの利く場所に導いた。道路を離れると雪が深く、移動するのはひと苦労だった。 「あの銀色に光っているものが、そうなのね」ケイがリールに言った。 「あれはシステムの一部に過ぎないわ。警告、威嚇、そして攻撃の一連の機能を集中して管理するためのね」リールがそう言うのを聞いて、ケイはまた胃が痛むような憂鬱を感じた。自分のしていることは、本当に良い結果を生むのだろうか。外の世界をこれほどまでにして、拒否している人々のところへ行くことが……。 「諸君」ブールがみんなの方を向いて演説を始めた。「諸君がいま目にしている閉鎖システムは、本来恒久的なものだ。我々の調査によれば、これはフル・オートマチックの要塞といったところだ。自分で自分を修理し、自分で自分の寿命の尽きた部品を交換する。しかし結論から言えば、これを作ったアラスカの人々が考えているほど完全なものではなかった。予想外の部品欠損、機能低下、それらが君たちに道を開いてくれた。それがあの道だ」彼はさっきの森に続く舗装道路を指し示した。「あの向こうに君たちの住むべき土地がある」 「安全は保障できるの!」ブールの演説を遮って言ったのは、リールだった。「自動閉鎖システムが作動していなくたって、彼らはほかの手段でそれを補っているかもしれないわ」 「例えば銃をもった兵士によって、ということかね? それゆえ、ここからは君たちだけで行くことになる。アラスカ人はリーベイションを受けた人間に危害を加えるかも知れないからね。君たちにとっても危険はあるかもしれない。しかし、それは始めから覚悟の上のことじゃなかったかね? 覚悟していたから、法を犯してまで武器をそろえたりしたんだろう。わたしは君たちが自分の信念に賭けるつもりがあると思ったからこそ、ここに連れてきたんだ」 リールは黙りこくった。まったくブールの言う通りだ。今になっておかしなことを言ったものだ。《満たされざる人々》は、アラスカ人がけっして自らすすんで閉じこもっているわけではないと主張してきたが、それは証拠があるからではなかった。〈オリジナル〉には希望が必要だったのだ。 「行こう」ブールが促した。15人の背の低い男女は、雪をかきわけながらもとの舗装道路に戻り、歩き始めた。中央分離体から間断なく流れる液体状の解凍物質のおかげで、道路にはまったく雪がない。 閉ざされた道のために雪をとり除くこのシステムは、やはり自動的なものなのだろうか、とリールは考えた。アラスカに通ずる何百本もの道が同じシステムをもっているのに違いない。道を開くためのシステムと道を閉ざすためのシステムが、ここでは同時に作動している。この境界線を管理する意志が存在していない証拠だ。 「警告する」どこからともなく抑揚のない声が響いた。「この先には侵入者に対する自動防御システムが設置されている。侵入者は自動的に処分の対象になる」それから、リールの理解できない何種類かの自然語による警告が続いた。 先頭を歩いていたブールが立ち止まって言った。「この地帯で正常に作動しているのは、この警告のシステムだけだ。もうこの後には何もない。諸君を待つ世界以外は……」彼はゆっくりと道の向こうの方を見回した。「わたしはここまでだ。ここから先は諸君の領域だからな」彼は〈オリジナル〉のひとりひとりに歩み寄って握手を求め、最後に「幸運を」と言い残して、もと来た道を戻っていった。 「とうとう来た。俺はこの日を5年も待ったんだ」リールの隣を歩いている男が言った。「森の向こうがどんな世界でも、あそこでは、みな同じなんだ。お互いに通じる言葉で話し、俺にできないことは、みんなにもできやしない……」 「大丈夫よ」リールはケイにささやいた。「きっと何も起こらないわ」 「ええ……」ケイはかぼそい声でやっとそう言った。 「ブールは慎重な男よ。調査は行き届いているわ。わたしたちはこの境界線を越える最初の人間になるのよ」ケイは小さくうなずいて、リールの腕を離した。 30分ほど歩くと、除雪装置は働いておらず、彼らは膝までの雪をかきわけながら進まなければならなかった。道路自体は続いていたので道に迷う心配はなかったが、それはつらい行進だった。 「何か見えるぞ」リールは立ち止まって、そう言った男の指す方を見た。雪の照り返しがまぶしいが、そのあたりで森が終わっており、道に沿って雪原に不自然な起伏があるのがわかる。それが家の形をしていることに気づくのに、そう時間はかからなかった。 彼らは歓喜の声を上げ、足を速めた。雪で思うように歩けないのがもどかしい。その集落が近づくと、彼らのある者は、まだ見ぬ友人たちに大声で呼びかけた。返事はなかったが、それでも飽くことなく何度も何度も呼びかけた。そうして、最初の家屋から20メートルほどの距離のところまで息咳切ってたどりついた末に、ようやく返事のない理由に気がついたのだった。 「足跡がないわ」リールが言った。ほかの者はまだ無言だった。「雪は五日前から降ってないのに……」リールはゆっくりと家に近づいた。 軒から下がるツララをはらうと、その家は丸木を組んで造られたものだった。壁に正方形の奇妙な切り込みがあるのが、微かにわかる。リールが怯えるように手をのばして、そこの部分を押してみると、雑木の正方形は崩れるようにして家の内側に落ちた。 ひんやりと湿った空気だった。床は硬い土で、何やら木の繊維のようなものでできた敷物が敷いてあった。木でつくられた粗末なベッドがふたつ。毛の抜け落ちた動物の皮と大量の藁のようなものが、その上にのせてある。壁は殺風景なもので、いくつかの正方形の窓とドアらしきものがあるだけだった。彼女は降り積もった雪の上から、窓を通じて家に入ったことになるらしかった。 30分もそこにいたろうか。リールが窓から外に這い出してみると、5人ほどの仲間が雪のなかで座りこんでいた。 「惨めなもんだ……」彼女が近づくと、そんな男の声が聞こえた。 「俺は食糧を見つけたぜ。塩漬のサーモンとトウモロコシだった。この村は捨てられたわけじゃなく、特定の季節にだけ利用されているのかもしれない」 「アラスカでは、みんなこんな生活ぶりなのかしら……」 リールは黙っていた。確かに予想外のことだった。しかし、だからどうしたというのだ。高速地下鉄がはりめぐらされ、清掃ロボットが歩きまわる世界に、ただ人間だけが〈オリジナル〉であるような……そんな世界は、初めから期待していなかったはずだ。そう彼女は自分に言い聞かせた。 やがて、肩を落としたほかの〈オリジナル〉たちも集まってきた。ひとりの女が引き返すべきだという意見を述べ、議論が始まった。意見は割れ、結局それぞれが望む道を選ぶことになり、10人が元の世界への帰還を決めた。 リールは、森に引き返してゆく仲間たちを飽かずに眺めていた。赤いヤッケを着たケイの姿も、そのなかに見える。彼女は誰に言うでもなく、しかしはっきりとした声で言った。 「わたしは大勢の仲間に会うために、ここに来たのよ。たとえ、弓矢で殺されようと後悔はしないわ」 そして、リールは森に還る道に背を向け、雪原の奥へと歩き始めた。 フラン・マキタがシローに来るように指定した公園は、A−6地区の小高い丘の上にあった。彼女はすでにその入口に近いベンチにすわり、シローを待っていた。 「いつかの大変な晩以来ね、シロー」 「君がこうして、まだ自由の身でいられるは不思議なことだ。恩人の幸運を僕は喜ぶべきなんだろうね……」シローはフランの隣にすわった。 「運は向いてないのよ。あなたに会った晩以来、最低だわ」そう言いながら、彼女はバッグから厚い紙の束をとり出し、シローに手渡した。それには何か集約語でぎっしりと書かれてあった。「サトル・ミネカワのことが書かれているわ。それとデルガード研究所のことが……」 今のシローには、コンピュータのアウト・プットしたものらしいその書類を一瞥しただけで、フランの言っていることが嘘ではないことがわかった。これはシローの父親に関する記録だ。 「君は集約語が読めるのか?」 「ほんの少しはね。でもゆっくり読んでいる暇は、もうわたしにはないの」フランはバッグの底から無煙シガレットを出して火をつけた。「わたしの勘だと、あなたにはそれが読めるようになるわ。いつのことかは、わからないけど……。今は新婚の奥さんに読んでもらうといいわ」 「何が言いたいんだ」シローは目下の自分の関心事をずばりと突かれた気がして、ドキリとした。「それに、こんなものを一体どうやって手に入れた? これには機密レベルの表示がある。公の機関のものなのか?」 「あら、あなたも集約語が読めるんじゃないの」シローの興奮を軽くあしらうように、フランは微笑んだ。「少し時間をかけさせてくれさえすれば、〈オリジナル〉にだって集約語くらい読めるんだわ……。普通の人間のように集約語を扱うことはできないにしても……。それなのに、あの連中ときたら〈オリジナル〉にはそんな能力がないと、頭から決めつけてしまっている」彼女は立ち上がって、シローの肩に手を置いた。 「サトル・ミネカワは博士号をもつリーベイション技師であるとともに、デルガード研究所の客員研究員でもあったわ。デルガード研究所が新種人類論争に終止符を打つことになった科学スキャンダルの震源地だったことは、あなたもどこかで聞いたことがあるでしょう?」 「くわしくは知らない。何でも、生物医学倫理委員会の承認を経ずに人体実験が行われたとかいう話だったかな。しかし、その件に父は関係していなかった」 「正確に言えば、『ニュー・リーベイション措置に関する分割的予備実験』よ。胎芽の状態から体重2500グラムに至るまでの胎児を使った実験は、人体実験とはみなされないわ。遺伝的疾患をもった胎児を殺すことすら犯罪ではないのよ」 《満たされざる人々》にとって、それはいつも癇に障る話題だった。そのような道徳をもつ世界にあって、〈オリジナル〉が生れ出ることができるのは、自然産症が胎児の段階で確認できない唯一の遺伝的疾病であるからに過ぎない。であるとすれば、〈オリジナル〉とは生れてくるべきではなかった人間なのか?この話題はいつも彼らのそんな思いを深くさせる。 「この事件に関連して、5人の研究者が職を追われたわ。人体実験ではなく、当局の同意を得ないでニュー・リーベイションの実験を行なった責を問われてね。確かにあなたのお父さんはそのなかには含まれていないわ。新種人類論争でもドクター・ミネカワは発言を慎重に控え、賛成派にも反対派にも属さなかった……。でも、彼はその事件から5年後に同じような理由でポジションを追われたのよ」 「ニュー・リーベイションの実験で? 父に、何故そんなことをする必要があったんだ」 フランは煙草を吸い、大きく息を吐いて言った。「わからないわ……。ただわかることは、デルガード研究所とそれをバック・アップしていたフォノン財団が、新たなスキャンダルを怖れてこのことを隠し、依願退職の形であなたのお父さんの職を解いたということ。それに実験の内容が、リーベイション効果の因果的脈絡を明らかにしようとする効果の分割をめざしたものだったことよ。つまり、知能、体力、反射神経などの高能力化といった効果のうち、特定のものをとり出したり、抑制したりして、リーベイション効果の過程を個別化する実験をやったらしいの。その資料によると、肉体的形質における効果と精神・神経的効果の分離には成功したらしいわ。被験者は〈オリジナル〉の肉体と高能力化された知能をもって生れるはずだった……。しかし、実際にはそうならなかった……。人工合成された遺伝子を胎芽にもちこむための運搬ウィルスの分泌する化学物質が、記憶物質的な効果をもっていて、誕生後の被験者の知能高能力化の発現を心理的に抑制してしまうのよ」 「要するに結果から言えば、その被験者は〈オリジナル〉そのものとして、生れてくることになったわけだ。しかも人工的な作為の結果として……。そして、君の言わんとするのは、その被験者が僕だったらしいということなのか……」 「察しがいいわね。資料ではドクター・ミネカワの息子としか記録されていないわ。あなたの父親は、自分の息子に故意に障害を負わせるという非道を犯したわけね。ニュー・リーベイションには関心を示さず、既存のリーベイションの改良に努力を尽くしていた技師が、何故だか彼自身にしかわからない理由で……」 「僕が当然享受するべき能力を奪った……」フランの後を受けて、シローが続けた。 「しかし、僕の知能や反射神経に関しては、その発現を妨げているものが心理的抑制に過ぎないのだとしたら、いつかは回復する可能性がある、ということか……」 言うまでもなく、いまシローの身に起っていることがそれなのだった。ミナコはそれを奇跡だと言い、希望だと言った。シローにとっては重大だが奇妙で不安な事態にすぎなかったのだが、彼はいまフランの話を聞いて悟った。ミナコは正しかったのだ。 「これは、ひとつの希望なんだよ、フラン」 「そうは思えないわ。生後、心理的抑制をもたらす記憶物質の効果は、確かになんらかの心理的解発因によって解かれる可能性はあるけど、それがなにかは誰にもわからないのよ。あなたは一生このままかもしれない。それに、たとえ知能が人並になったとしても、あなたの外見は〈オリジナル〉のままよ」 「そうじゃないんだ、そんな意味じゃ……」 「あなたには、わかるの? お父さんがそんなことをした理由が」 短い沈黙があった。シローはフランにどういう風に話したものか、考えていた。父の意図は実験やリーベイション技術とは、無関係だったように思える。おそらく、父は故意にシローにそのような措置を施したのだろう。父はそれによってシローに何かを体験させたかったのだ。自然産症患者と普通の人々との隔てられた関係を超える何かを……。シローは自分のこの推量に確信に近いものを感じていた。しかし、それを証明する手立てはなにもなかった。 「わたし、きっと逮捕されるわ。あのバカども、あなたの言ったようにチップを使ったのよ。5日前のことよ」フランが植えこみの花を手折りながら、話題をかえて言った。白い茎にたくさんの青い小さな花がついている。「5日間も警察がどうして放っておいのか不思議でしょう? いまあなたにあげた資料のおかげなの」 あの晩、モリモトの部屋でクレップ式キーボードを使ったとき、《満たされざる人々》に関係して引き出されたデータのひとつから、彼女は自分の運命を知った。 〈オリジナル〉を、彼ら自身が望む限りにおいてアラスカに送り出してやるべきだと考えている支援グループの思いもよらない強大さ。彼らがフランたち『社会の負担』をアラスカに送り出すにあたって、フォノン財団の所有する資料の入手を欲していたこと。そして、フランはフォノン財団の資料に彼らがアプローチする、最も有望なルートだったのだ。 所詮、普通の人間にはかないっこないのだ。彼らはフランがいつかこの挙に出ることを、とっくに予想していた。だから警察さえ操って、フランを放っておいたに違いない。 「その資料のせいで、あなたがつかまったりすることはないわ」それはほんの一部にすぎないのだ。連中は家にあるメモリー・パックを手に入れれば、満足するだろう。「もう話すことはないわね……」 「何故、君はこの資料を僕に見せる気になったんだ」立ち去ろうとするフランにシローはたずねた。 「人はね……」彼女はシローの方を見ずに言った。「自分のルーツを知りたいと思うものよ。自分の来し方を知り、それで進むべき道を定めるんだわ」 フランが去り、シローは公園の花壇を眺めながら考えていた。冬だというのに、花々が咲き乱れている。ここに限らず、都市の極彩色の植物は1年中花を散らすことがないのだ。それは確かに生きてはいるが、人の手によって作られたものだった。それを作った人間自身と同じように……。 この世界では、人は自らの作為に埋めつくされて生きている。それは自分たちを誇り高く〈オリジナル〉と呼ぶ人々にしても、同じことだ。父はシローを、そんな世界に生きる新たな被造物として送り出すつもりだったのだろう。おそらくは、自然産症患者と普通の人々のあいだのかけ橋として。所詮、作為によって生み出された問題は、新たな作為によってしか解決されないものなのかもしれない。 そろそろミナコの待つ家に帰らなくてはならない。彼女の笑顔と細くて長い指を眺め、今日あったことを話そう。そうすれば、いい考えが浮かぶかもしれない。ミナコといっしょに考えよう。 明日から、何をしたらよいのかを……。明日からどんな人間として生きればよいのかを……。 |