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 恐怖は実にさまざまな形をとって人を脅かす。モンスター、暴力、死と苦痛の忌むべきシンボル、そして罪の自覚。
 私が一番恐ろしいと感じるのは最後のものだ。
 この種の恐怖は、罪となる行為を退ける自らの意志の力への不安によって、いっそう恐ろしいものになる。いや、そういう不安こそが、おそらくあらゆる恐怖の根源にあるものなのだろう。


実 験 動 物

 「頭ガ痛イ、ふりーだー。モウ耐エラレナイ……」
 声は皺がれ、力無かった。
 「痛いのは頭だけなの、ジェイク」と、彼女は冷たく言った。
 表情からは苦痛を読みとることができない。できたとしても、トミコ・フリーダーにはもう興味は無かったろう。
 苦痛を訴える箇所が頭で無かったら、トミコももう少しやさしい言葉をかけられたろう。頭では元の木阿弥だ。確めるまでもなく、急性の脳出血。無残な敗北のしるし。またもおんなじだ!
 「オレンジ・ジュースをあげるから、少し眠るといいわ」
 「ふりーだー、駄目ダ。おれんじ・じゅーす、駄目ダ。薬クレ。早ク助ケテクレ」
 トミコは、ジェイクの喉元からのびたコードの先にあるスピーカーのスイッチを切った。ジェイクは言葉のようなものを自分自身の喉から苦しそうに絞り出したが、それはもはやトミコの耳に意味を成さなかった。
 ジェイクはジェイクでなくなった。今はただの一匹の使用済みの実験動物。トミコは彼のことを、“J”と実験記録に記入するだろう。『J、Iと同一疾患。C、Gよりも知力の向上著し(詳細別記)。マイトロフリンによる延命効果は認められず――』。アントン、ブルース、チャーリー。今は皆ただのA、B、Cだ。
 トミコ・フリーダーは、ただの“J”であるアカゲザルの方をふり返りもせずに実験室を出た。空調の効いているのは実験室だけだ。熱気が肌にたちまち汗を滲ませる。彼女は、ここ24時間着っぱなしだった白衣をボタンをちぎるようにして脱ぎ捨て、シーツの乱れたベッドに腰を下ろした。
 これで10匹目のアカゲザルからも解放されたわけだ。もう餌をやる気もしない。放っておいても“J”はすぐに昏睡状態に入る。後で薬殺すればいい。後は規定のビニール袋に密閉して冷凍庫に入れておけば……。
 ふん、と彼女は独りで笑った。
 規定――ほとんどあらゆる規定を無視して、こんな実験を行っているのに、今更規定を配慮している自分がおかしかった。
 彼女の所属していた研究所の実験動物処分規定は、薬物実験でも細菌実験の場合と同じくらいに厳しい。生物医学の研究機関を核爆弾か何かのような目で見る世間とジャーナリズムへの、くだらない気遣いである。
 処分規定を遵守するためには惜しみなく金を投じるのに、彼女のささやかだが大きな成果が期待できる研究プランには金を出したがらない。民間の研究財団とはいえ、政府の資金援助が大きくなってしまえば、決定がお役所じみてくるのは仕方がないのかも知れない。彼女の同僚も、この傾向を馬鹿げたことだと口では言っていた。だが、その実、サインを必要とする書類の山によって、彼らの考え方はとうに官僚主義の慢性疾患に犯されていた。
 だが、彼女は違う。トミコ・フリーダーは、科学者たちがまだ孤独な知の冒険者だったころの気質を備えていた。
 下着姿のままコンピュータに自動ダイヤルを命じる。研究状況を伝えるデジタル信号がネットワークを通じて、主のいない彼女のアパートのコンピュータに送られる。5時間から24時間後――いつかはコンピュータがランダムに決定する――研究所のホスト・コンピュータにデータが送信されるようになっている。自分の居場所を知られずに研究結果を送りつけるために彼女が考案した仕組みだった。
 そうやって成果を知らせることによって、自分のしたことを研究所の理事たちが容認し、研究に資金を投入する気になるかも知れない。始めのうち、トミコにはそんな期待があった。今はどちらかと言えば、惰性的なルーティンとして通信を続けている。
 一年半に及ぶ資金の巧妙な私的流用。機材の持出し。一連の立派な背任行為のあと、休暇の届けを最後にぷいと姿を消す。夫にも黙ったまま……。
 不意に夫の姿が脳裏に浮かぶ。リベロは自分のことを少しは気にかけているだろうか。仕事よりはホログラフ番組と素人小説の投稿に熱心な男、リベロ・フリーダー。
 サー・グランの新作とか、触感芸術の将来とかが彼の話題だった。トミコが彼と結婚したのは、彼が自分にないものをもっているように感じたからだったが、それは大きな誤解だった。
 どうしたんだろう。今さらリベロのことを思い出すなんて……。2か月もたった1人で田舎に閉じこもっているからだろうか……。
 彼女は椅子から立ち上がって、その考えを頭から振り払った。自分から雇主に造反し、夫や友人を自分の世界から追放したのだ。今さらリベロの面影を頼りに自分を励ますなんて卑怯ではないか。
 ドアの向こうから猿の甲高い鳴き声が響く。トミコは、いらいらしながら黒い髪を両手でかき上げた。早く昏睡してしまえばいいのに……。
 実験用のアカゲザルにも性格の違いがある。“J”のやつは最低だ。“G”には実験の意味を理解して死を受け入れるだけの強さがあった。身体のどこに異変が生じたかはちゃんと報告したが、苦痛に叫び声を上げたりはしなかった。“L”は――“L”はどうだったろう……。確かに“L”という実験動物がいたのだが……。
 このところ、そういったことをふっと思い出せなくなる。どの猿も同じ顔だから無理はない。記録は控えてあるし、重要な実験結果は頭に入っているから特に問題はない。
 ああ、そうだ。虫退治の薬を撒かなくてはならない。キッチンの白蟻をなんとかしなくては。
 キッチンのテーブルには、黒く細かい煤のようなものがたくさん着いている。トミコがそれを発見したのは、2、3日前のことだ。よく見ようと顔を近づけると、彼女の呼吸のわずかな風がそれを宙に舞い上がらせた。それは虫の落とした羽であった。軽く塵のようにフワフワと浮かんでしまうため箒はもちろん掃除機を用いても、うまく掃除できなかった。部屋全体が汚染されたように不快だった。彼女に白蟻に関する知識はなかったが、それを警戒するのに十分な警告である。果たして、蟻はキッチンから外に通じるドアの辺りに巣くっていた。
 トミコは買っておいた殺虫剤のスプレーを手にして、ドアの蝶番いの辺りに吹きかけようと狙いを定めた。
 「あ」
 思わず小さな叫び声を上げる。
 蟻たちの染みのような影に埋まるようにして小動物がいた。白い毛並みにはつやがなく、それが死んでいることはすぐにわかった。実験用のラットである。赤い目があったはずの所はすでにただの黒い穴になっていて、その二つの穴と口から白蟻たちの列が続いていた。トミコの喉元に、胸の辺りからむかつくような衝動が突き上げ、でたらめにスプレーをぶちまける。
 白蟻がラットを食べるなんて……。そんな種類もいるのだろうか。あのラットは……。
 小走りに実験室に駆け入る。彼女を見つけた“J”がケージにしがみついて歯を剥き出し、吠えた。
 ラットのケージは? ああ、うるさい猿だ。お前はもう用済みなんだったら……。  ラット用の五つのケージはいずれも空である。閂がきれいに外されている。そんな馬鹿なはずがない。あの薬を投与して知性の高まったラットならそれくらいのことはやるだろうが、今いるラットはまだ何の措置も施していないのだ。
 五つ目の壁側のケージで白いものが動く。トミコはケージの置かれた床に身を沈めた。
 そのラットは開いたケージの奥の隅でうずくまっていた。ときどき頭を左右に振り、身を起こしては前肢を口に運んでいる。
 「何てこと。蟻だわ……」
 ラットはケージの反対側の金網から手を伸ばして蟻を捕えて食べていた。羽はキッチンにしか落ちていなかったが、白蟻は家の全体に広がっていたらしい。
 実験に使用した薬品の漏出。トミコは、まずそれに思い至った。猿やラットには薬を餌に混ぜて与えている。白蟻は湿ったものを好むと聞いているし、ラットの食べた白蟻が薬を体内にもっていれば、やがては……。食べ残した餌の始末には気を使ったつもりだったが……。しかし、いつのまに?
 いつから、ラットは白蟻を食べていたのだろう。
 トミコは以前の実験結果を思い起して、その点の重要なことに気がついた。ラットのような新陳代謝の激しい生き物では、致命的な副作用である脳出血はきわめて短時間で起こる。通常は数時間以内で。だからラットの場合、学習能力が飛躍的に高まっても、その成果が行動に反映されることはほとんどない。自分でケージの閂を外したりはできないはずである。
 トミコは、それから丸1日、食事もとらずに実験室にこもった。
 ゲージのラットとキッチンで死んでいたラットを、観察し、切り刻み、擦り潰して、知り得る限りのことを調べた。まだ意識のある“J”が、それを見て悲鳴とも鳴咽ともつかない声を上げる。“ジェイク”と呼ばれていた“J”にはこんなところを決して見せなかった彼女だったが、今はそんな気遣いのかけらもない。
 キッチンのラットの死因は肝不全だった。学習能力を生かす時間があったわけだ。急性の脳出血でないことが重要だ。肝機能の急激な低下も迅速な死を招くが、あらかじめわかってさえいれば対症療法はいくつもある。事前の措置によって発症をくいとめることも不可能ではない。
 それにしても、白蟻を食べたラットは何故違うのだろう。虫の体内で起こる薬の変質? 薬が常温の空気に長時間さらされた結果? 考えられる原因は1ダースほどもある。  トミコは椅子をデスクから離して深く溜息をついた。睡眠不足で頭が重い。偶然にせよ緒がつかめたと思ったのに、行き着いたのはやはり迷路だ。
 デスクの受話器をとり、ちょっとためらいながら、ダイヤルを回す。同じ研究所に勤めていた肝疾患の専門家の自宅の番号である。レイブン・カークは自分の研究に好意的だった。彼なら、迷路を抜け出すヒントをくれるかも知れない。
 「ハロー。レイブン? フリーダーよ」
 眠そうな返事が受話器から聞こえた。そう言えば今はまだ真夜中だった。レイブンは研究所に送ったレポートを読んでいるはずだ。彼女は今起っていることをまくしたてた。レイブンの反応は鈍い。
 「本当に君はフリーダーなのか?」彼はトミコの話を断ち切るように言った。「今、どこにいる? 研究所の委員会が君を必死に捜しまわっているんだぞ。早く居場所を知らせるんだ。君は――」
 ああ、レイブンも他の連中と同じだ……。
 「急がないと――」
 「その実験は危険――」
 もう聞きたくもない。
 受話器を置き、外部の援助と理解を期待したことの後悔にさいなまれながら、洗面所の前に立つ。鏡の中の自分は実際より10もふけて見えた。
 顔を洗おうとして目を落としたとき、彼女は床の奇妙な模様に気づいた。
 粘土を細く盛り上げたような線が、そこにあった。文字のようにも見える。M……O……R、E……。子供のいたずら書きのようだ。「もっと――」。その後は読めない。
 その直後目に入ったものに、彼女は自分の精神状態を疑った。洗面所の排水管が床に繋がるところにいたものは、まぎれもない白蟻の群れだったのだ。何百匹という蟻がかたまり、そこと“文字”の書かれた床が細い蟻たちの列で結ばれている。列の先頭は不明瞭な“文字”のところにあった。
 蟻たちは“文字”のところにやって来ては、尖った嘴状の吻から薄茶色の粘液を出している。蟻の列は“文字”に向かうのと“文字”から戻るのとの2列からなり、実に整然としたものだった。
 白蟻のメッセージ?
 ろくな中枢神経もない下等動物に、あの薬の効果が現れたというのだろうか。いや、壁の木目が人の顔に見えるようなものかも知れない。だが、もしかしたら……。
 トミコは研究者としての自分の注意力が、疲労のため鈍っていたことを悟った。
 ああ、何故気づかなかったのだろう。ラットより白蟻のほうがよほど重要ではないか。ラットにケージの閂を外す知能と肝不全をもたらした物質は白蟻の体内にあるはずだ!
 早速ビーカーに蟻を集める。普通の蟻と違って白蟻の身体は芋虫のように柔らかで、生かしたまま指でつまみ上げることは難しかった。たいていは潰して殺してしまう。まあいい。生かしたまま捕まえても、蟻のIQの測り方なんて見当もつかない。擦り潰して薬の成分の分析ができればいいのだ。
 生きている蟻も死んでいる蟻もいっしょくたにして陶器の皿で擦り潰す。皿に一定量の超純水を注ぎ、白灰色の泥のようになった蟻の死骸を注意深く溶かしこんだ。後は皿ごとマルチ・アナライザーに入れればいい。
 《分析対象物質0.982グラム》
 マルチ・アナライザーはいつものように、重要度の少ないデータから主人に伝えた。
 標本の絶対量が不足している。随分たくさん捕まえたつもりなのに――。これじゃ構成比1パーセント以下の微量物質は確認できないだろう。
 彼女はまた洗面所で蟻を捕まえようと考えたが、それを思い止まった。
 蟻を分析機にかけるより、この白蟻を擦り潰したものをアカゲザルの餌に混ぜて与えてみるのがいい。ラットが蟻を食うことによって知能を得たのなら、猿にだって効果がるあるはずだ。若い猿がいいだろう。今までの実験結果では、第二次性徴前のほうが薬の効果が確認し易かった。
 トミコは“J”の入っているケージの方を振り返った。蟻に夢中になっているうちに、アカゲザルは動かなくなっていた。ケージの扉を開けて、“J”の毛を乱暴に撫でてみる。体温はまだあったが、すでに息絶えていることはすぐに分かった。死後硬直が始まる前だったので、ケージから出すのにもさほど苦労はない。
 トミコは猿の重たい死体を引きずりながらキッチンに出た。実験用のアカゲザルを飼っているガレージには表からしか入れない。死んだ実験動物を収めておく冷凍庫もそこにある。キッチンのドアを通じて行くのが最短距離だ。
 ガレージのシャッターを開けるのには力がいる。トミコは両手に力を込めて、やっと50センチほどもち上げた。むっとする湿度の高い空気が彼女の息をつまらせる。
 ガレージの入口は南向きだ。照りつける陽射しがまともにシャッターの鉄を焼く。中は摂氏50度にはなっているだろう。だから空調を……。そうだ、いったいエアコンはどうなった? セットを忘れたのだろうか。だとしたら、実験動物の健康状態が気にかかる。
 手探りで照明のスイッチを入れる。明るくなった部屋は、彼女の記憶とは違っていた。
 猿など1匹もいない。少なくとも、5匹はいたはずなのに……。ケージも一つきりだ。実験にはすでに10匹のアカゲザルを使ったから、ここには15のケージがなければならないはずだ。
 しかし、ケージはひとつ……。そうだ。ケージは確かにひとつしか買わなかった。あれはちゃんとした実験用のものではなく、町のペットショップに注文したのだ。店の主人が届けに来たときの記憶がある。
 しかし、それならどうやって、自分は10匹の猿を実験に使うことができたのだろう。トミコは“J”の死体を引きずったまま、冷凍庫のノブに手をかけた。そのなかには、猿の死体がひとつだけあった。それは、ビニール袋に包まれて冷凍庫の隅に蹲っていた。ビニールの上から首に緩んだ鎖が掛けてある。
 鎖にはステンレス製らしいカード状のタグがつけられていた。そのカードには赤い塗料で大きくJの文字が書かれていた。ジェイクの“J”――。
 「何のつもりなの」トミコは引きずってきた猿の死骸をちらりと見た。
 「誰がこんなことをしたのよ」
 死骸を冷凍庫に投げこむ。こんな場所から一刻も早く出たかった。
 シャッターの下をくぐろうとするとき、白い動く物が目に入った。実験用のラットである。前肢をもち上げ、アルビノ独特の真赤な目で彼女をじっと見つめている。
 それから後のことはよく覚えていない。そばにあったスコップを振り上げ、何かに憑かれたようにラットを追いまわした記憶だけがあった。


 気がつくとベッドの上だった。
 今が何時なのかもわからなかった。何をする気もおきない。
 これは幾度か味わった研究上のスランプと同じなのだろうか? 積み上げ、体系化してきた知識が一遍に駄目になることがある。しなければならないことの、どこから手をつけてよいかもわからず、呆然とした状態で何週間も過ごすのだ。
 「こんなときは――」彼女は、自分が声を出したことに戸惑いながら続けた。「いつもリベロが食事を作ってくれたわ」
 ――誰にでもあることさ。
 ――君は優秀なんだろう。このままじゃ終わらないさ。
 野心とか向上心とかいったものを前世に置き忘れてきたような夫だが、こういうときだけは彼女の支えになっていたようにも思える。
 電話が鳴った。
 ここにやってきてから初めてのことだった。ここの番号を知っている者はいないはずなのだ。彼女は、自分はもっと驚き警戒するべきだと思いながら、夢遊病患者のように受話器をとった。
 「もしもし、フリーダーか。カークだ。レイブン・カーク」
 なじみのある声だった。レイブン・カークは肝疾患の専門家だ。トミコと同じ研究所に勤めていて、彼女の研究に好意的な数少ない研究者の一人だった。
 「番号がわかったってことは、ここもバレちゃったってことね……」
 「切るなよ、トミコ」
 そうだ。彼は肝疾患の専門家なのだ。何故気がつかなかったんだろう。彼になら適切なアドバイスがもらえるかも知れない。
 「レイブン、あなたの話はあとだわ。聞いて欲しいことがあるの。2か月間ただ雲隠れしていたわけじゃないのよ」
 トミコは自分の研究の現状についてまくしたてた。受話器の声が沈黙する。いつもは研究の話となればすぐに乗ってくるレイブンなのだが、やはり自分の失踪に腹を立てているのかも知れない。
 「トミコ、よく聞くんだ――」彼は力のこもった声でトミコの説明を遮った。「いいか、今の話は昨日電話で聞いたばかりだぞ。君自身が僕に電話で言ったんだ。それに、君が研究所から消えてから2か月も経っちゃいない。1週間だ。1週間前に君は研究所のベッドを抜け出し、行方をくらましたんだ」
 今度はトミコが沈黙する番だった。
 「記憶の間歇的欠落が副作用の中心だ。だが、それだけじゃない。君のモルモットにされた人たちは今朝までにみんな息をひきとったんだ。皆、急性の脳出血だ。いいか、集中治療室の設備をもつ病院の完全看護下にないと、君も危険なんだ」
 「私、人体実験をやったの……」
 「ああそうだ。無許可の人体実験だ。脳軟化症の決定的治療法を開発するためのね」
 レイブンはいらだっている。事実のすべてを一々説明しなければならないせいだ。彼は嘘をついていない。
 「アカゲザルが言葉をしゃべったなんていうのは、君の妄想の所産だよ。確かにあの薬は知能やとくに数量的判断力を一時的に相当高めはするが――」
 すべてが幻? いいや、“J”と話した記憶が偽物のはずはない。しかし、実験動物の死骸は? 飼っていたはずの猿は?
 「レイブン、リベロと連絡はつくかしら……」
 リベロの助けが欲しい……。星と海の話をするリベロ。役立たずの本の虫のリベロ。  「リベロだって。そこにいないのか。彼は、君が研究所を抜け出す手助けをしたんだぞ。彼は君の状態を知らずに――」
 トミコは、自分に研究所を出る前後の記憶がおぼろげなことに気づいた。研究所からは、車で出た。自分は助手席にいたから、運転した者は別にいたわけだ。あれがリベロ?
 受話器をもったままの手をだらりと下げて、天井を見上げる。レイブンはまだ何か喋っているらしい。
 「レイブンの言う通りらしいわ……」受話器が床に落ちる音を聞いて、彼女はそれから手を離したことに始めて気がつく。
 そして、昨日までなかった床の染みにも。
 今度ははっきりと読みとれる。D、O、N、アポストロフィ、T……。ドント・キル――殺すな!
 「薬の効果だけは事実のようね……」床のしみに歩みよって、文字を指でなぞる。
 「殺すなって……蟻を擦り潰したりするなってこと? それとも、実験で動物たちを殺したことに抗議してるの?」
 鼠の鳴き声が聞こえる。ラットがデスクの上で彼女を見据えている。
 彼女が近づくと、ラットは床に飛び降り、今しがた見ていたのと同じような染みのまわりをくるりと回って消えた。
 M、O、R、E、F、O、O、D。
 『もっと食べ物を』と、それは読めた。
 「薬が欲しいっていうの。もっと頭がよくなりたいっていうのね。ああ――」
 崩れるように椅子に座りこむ。両肘をついたデスクに再びラットが現れた。真赤な目が彼女を不思議そうに見つめている。それは彼女に注意を払いながら、デスクの上を鋭い前歯でかじり始めた。
 一文字彫りつけるごとに、身体を起して彼女のほうを見る。
 M、O、R、E |もっと。L、I……。何を要求したいのだろう。
 MORE LIBERO。
 「リベロ!」トミコは立ち上がって叫ぶ。「『もっと。リベロ』かしら、『もっとリベロを』かも知れない」
 リベロがいる。ラットがそれを知っているのだ。
 「私が忘れてるだけなのね! 彼はどこなの」
 ラットがデスクを飛び降りる。2メートルほど走っては止まり、トミコを誘うように振り向く。彼女が追うと、キッチンの出口のところにもう1匹のラットが待っていた。
 2匹のラットはトミコを森の方に導いていく。家から50メートルも離れると、そこはもう大樹と野鳥たちの領域だった。木漏れ日の当たる大きな木の根元のところで、ラットは止まった。
 そこで見たものに、トミコは悲鳴を上げたらしかった。鳥たちが時ならぬ叫びに驚いて一斉に舞い上がり、風にさらされる梢のざわめきさえ、その瞬間に乱れた気がした。
 地面が不格好に口を開け、肉と骨がのぞいている。骨の白さを浮き立たせる大量の蝿。そして、その忌わしい蝿の群れよりさらに数多い白蟻がところかまわず――破れたシャツのあいだ、眼球の落ちた眼窩の中、耳の穴を出入りし――。
 確かにリベロのものであるシャツを着たその死体は、首から鎖を下げていた。実験用のアカゲザルと同じ鎖。その鎖に付けられたステンレス・スチールの清潔なタグには、大きな文字で“L”と――。
 “L”。
 “L”。
 “L”。
 何かに躓く。脛を酷くぶつけたようだが、痛みはない。
 “L”。
 リベロ。
 “L”。
 叩き割るような勢いでドアを開けた。白衣の胸をはだけて、荒い息を繰り返す。
 「リベロを殺した」と、声に出して言ってみる。不意に研究所の老人患者たちの顔が浮かぶ。
 「ミスタ・ブルムもミス・ペトロフも、みんな私が殺した……。蟻がリベロを……。ああ、リベロを食べて利口になったんだわ」
 ベッドに倒れこむと息が少し落着いてきた。また電話が鳴っている。
 「放っておいてよ! 私は――」
 私は忙しいのよ。たったひとつだけ、うまくやらなきゃならないことがあるんだわ。
 薬の箱が色とりどりに棚の上を飾っている。トミコの目が、それらのひとつひとつを必死に追った。苦痛のあるなしは問題ではなかった。
 神よ、すみやかな罰を――


 暑い夜が明けた。
 トミコ・フリーダーは、白衣を着たまま眠りこけてしまったことに気がついた。背中がべっとりと汗に濡れている。
 ここのところ、実験がうまくいっていない。昨日も徹夜同然で、2時間ほど寝たははずなのに、頭の奥にはねっとりとした疲労がこびりついたままだった。
 昨日死んだアカゲザルも急性の脳出血だった。実験に使われた猿に彼女はジェイクという名を付けていた。薬の効果はこれまでのどの猿よりも著しく、ジェイクは覚えた単語をある程度文法的に並べて話すことさえできた。
 しかし、問題は死因である。相変わらずの脳出血。決定的な障害をとり除くことは、またしてもできなかったのだ。
 トミコは、ジェイクが昏睡状態に入るとすぐに静脈注射で命を奪った。実験結果がわかったからには、餌をやるのも嫌だったからだ。彼女は、次の実験に必要なデータを除いて、すでにジェイクのことを忘れかけていた。彼がオレンジ・ジュースを好きだったこと。実験室の片隅に置かれたケージのなかのラットに特別な興味を示していたこと等々。
 もはやジェイクはジェイクでなく、実験動物“J”に過ぎない。
 それにしても“J”は往生際の悪い猿だった。昏睡状態に入るまで、頭痛の苦しさを一晩中訴えて鳴き続けた。同じ実験用のアカゲザルでも“G”は違った。あれは、トミコの研究の意義を理解しており、自分の死を従容として受け入れた。“L”は――。
 “L”はどうだったろう? 最近、こういったことをふっと思い出せなくなる。まあ、肝腎の実験結果はノートに控えてあるから問題はない。
 トミコは“J”がここで飼っている最後のアカゲザルだったことを思い出した。新しい実験動物の注文をしなくてはならない。
 トミコはベッドから立ち上がり、デスクの電話に手をかけた。
 疲れのせいか、彼女はさっきから軽い頭痛を感じていた。


COPY RIGHT:六高寺 弦 ROKKOJI Gen
E-MAIL ADRRESS:rkj@ezoya.co.jp

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