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 この作品は民間の教材会社の「読書感想文教材」として印刷物になった。依頼によって執筆した数少ない作品のひとつというわけだ。
 〆切まで数日しかなく、とても名のあるプロの書き手には頼めない、というのが私にお鉢が回ってきた理由らしい。依頼はエッセイだったのだが、私は3本のエッセイとこの作品を書き上げて、結果として小説の本作が採用された。
 5枚という予定枚数が、私には非常に厳しかったことを覚えている。そういう枚数で小説を書いたことはなかったし、おそらく今後もないだろう。
 教材になると聞いたためか、やや説教臭い作品になっている感はあるが、自分の書きたかったことは書けているという実感はある。


 観念山の物の怪

 世に名を知られた大悪党弥彦丸が観念山の物の怪に出会ったのは、月の光ひとつない鬱蒼とした木々の茂る峠の高所であった。その物の怪は黄泉を思わせる闇の中から恐ろしげな目玉を光らせていた。
 「近在の山にあって人を食らう物の怪とは、おまえのことか」
 弥彦丸が物の怪に向かって言った。物の怪は両の目玉を傾けると、闇そのものを思わせる真っ黒な腕を伸ばし、弥彦丸の肩をなぶるように叩いた。この世のものとは思えぬ恐ろしい力に倒れ伏した弥彦丸の頭上から、雷鳴のごとき声が被さった。
 「そうだ、弥彦丸。人を食ろうて生きるのがわが宿業じゃ」
 見ると、恐ろしげな闇は弥彦丸の周囲を完全に包みこんでしまっていた。逃れる術はすでになかった。
 「食らう前に、ひとつだけ願いを聞いてやる。会いたい者がおれば、会わせてやろう。食いたい物があれば、食わせてやる。ただし、夢々命助かろうなどと思うな」
 「願い事など無用だ。食らいたければ早く食らえ」弥彦丸は言い放った。
 思えば、惜しい命ではなかった。明日もなく、望みもなく、ただ悪行ばかりを尽くして生きてきた。盗みもした。騙しもした。人殺しも犯した。己自身が人の姿をした物の怪のごとき生き物であった。
 「おまえは死ぬるを恐れておらぬな」物の怪が目に怒りの光を宿しながら言った。「天下一の悪党に怖いものなどないと言いたいか」
 「人の命など塵芥のごとくに弄んで生きてきたのだ。われの命とて同じ」
 「慢心するな、小悪党めが!」
 物の怪の声は地が割れんばかりだった。
 「ならば、見せてやろうぞ」
 闇のなかのふたつの目玉が色を変えた。
 「これぞ、わが前世。呪われし宿業」
 弥彦丸の目に、炎に包まれる京の都の光景が広がった。
 大火に乗じた悪党に目の前で父母兄弟を殺された子供が、血のついた衣を着たまま泣いていた。その子は物乞いから始めて、やがて死骸の持物を盗むことを覚え、十歳で人を殺めて金をとることを覚えた。長じてからは悪党どもの大将となり、以後数限りない人を殺めて身を血に染めながら生きていった。仲間も赤子も容赦なく殺して悔いるところがなかった。男は仲間に裏切られて役人に囚われ、その非道悪行の報いに鋸引の刑に処せられたが、その息の尽きる時まで見物の民人に悪態をつき続けた。
 「いかに、弥彦丸! われこそは外道の輪廻を彷徨う鬼。人を食ろうて生きる運命の魔物じゃ」
 弥彦丸が伏せていた顔を上げた。その面には恐怖はなかった。
 「願いをひとつ聞くと言ったな」
 「いかにも」
 「ならば、己の宿業を絶て」
 弥彦丸の眼には涙が溢れていた。
 「おまえはわれと同じじゃ。人の命も自分の命も惜しいとは思わぬ。だが、おまえの憎しみ、おまえの運命はわが胸を突き刺すようだ。苦しゅうてたまらぬ。その宿業を絶て」
 弥彦丸を包んでいた邪悪な闇が不意に緩んだような気がした。
 物の怪の固めた結界がほどけ、弥彦丸の頬に密やかな夏の夜風がかすめていった。
 「弥彦丸よ」
 物の怪の声が遠くに聞こえた。
 「幾百の人を食ろうたが、最期の望みに己を食らおうとする者を救おうとした者はいなかった。われはおまえを待って、悪しき宿業の輪廻を巡ってきたのかも知れぬ……」
 「わが命、とらぬのか」
 物の怪の声は梢の合間の星の彼方に消え果てようとしていた。
 「外道の宿業を絶った者に命はとれぬ」
 暗夜の峠に弥彦丸はひとり佇んでいた。
 弥彦丸は腰の剣を抜き、それを道の脇の土の中へと埋めると、俯いたまま峠を下り始めた。


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