Comment

 私たちの身の回りには、自分の地位や階級を表象させるものがたくさんある。肩書き、服装、装身具、家の大きさ、高価な自動車などで、人々は目の前にしている者の大いさを量る。
 愚かしい習慣だが、私たちはかつてそれから自由になったことがあるだろうか?
 この作品、周囲の評判はあまり芳しくなかった。恐ろしい――というより暗くて不愉快な作品だからだろう。
 しかし、私は、読者に快楽を提供するものだけがすぐれた小説なのではないと思っている。しかも、かなりの確信をもって。


我が名の彼方

 「タユマ・リキ・ニママ・イチセです」と男は私を紹介した。そして、私に向かい合って座っているD−17社の男を「こちらはユラタ・オーカ・ハウ・キノカワ」と紹介した。
 ユラタ・オーカ・ハウ・キノカワ――
 私はその名を心のなかで繰り返した。
 この男はたいした大学を出ていない。成績も中の下程度だ。転職の経験もあるが、自分の望んでいたような仕事に就けたためしがない。現在は係長職で、上司の評価はまあまあだ。
 キノカワの人生の全体的なキャリアは、私のそれを下回っていた。私はこの商談でその分だけ優位に立つことができる。
 キノカワは、私の名を聞いてすぐ書類に目を落とし、商談に入ろうとした。表情には現れないが、こんな相手との交渉を設定した上司への不満が彼の胸を満たしているに違いない。商談は間違いなく私のペースで進むだろう。
 その日はD−17社から直接帰宅した。MR98B地区にあるマンションのドアを開けると、妻はいつになく礼儀正しく迎えた。
 「あなた、登録局から通知がきています」
 妻はそう言ってうやうやしく1通の封筒を私に手渡した。それは私に新しい名前の使用を許可する通知だった。
 ――タクマ・リューキ・ニママ・イチセ
 これが私の明日からの名前である。
 「いい響きね」と妻が言った。「ご近所に鼻が高いわ」
 「お前にも通知がきただろう」
 「ええ」
 妻はすこし恥ずかしそうに、自分宛ての封書を私に差し出した。
 「アラミラ・クミン・テレン・イチセ……か」
 その名には幸せな響きがあった。夫の明るい将来を信じている幸せな妻のイメージ。
 「表札を書きかえなくちゃな」
 「明日、私がやっておくわ。今までのよりすこし立派なのにしたいな」
 妻にとって、これほど楽しい仕事はないことだろう。誇らしげに表札を注文する妻の姿を思い浮かべて、私もこみあげてくる嬉しさを抑えきれなかった。
 翌日、私は出社すると同時に登録局からの通知書を総務課に届け出た。
 「おめでとう。すぐに掲示板に張り出しておくよ」総務課長はそう言って私に握手を求めた。「名札もすぐに作る」
 自分のデスクにつくと、部下が仕事の相談にやってきた。
 「P−47社との契約の件なんですが……」
 私は黙って彼の顔を見ていた。自分の名前を知らない相手と会話を交わすわけにはいかない。いっこうに返事を返さない私を部下は困ったような顔で眺めている。
 「あ」
 彼は、私の胸に名札がないのにやっと気づいたようだ。
 「タクマ・リューキ・ニママ・イチセだ。話を続けたまえ」
 「失礼しました。おめでとうこざいます。いい名前ですね、力強くて――」
 部下は私の新しい名前を褒める言葉を10も並べたてた。お世辞だとわかっていても、私は自分の顔に笑みが浮かぶのを抑えられなかった。実際、民間企業の係長職にある者の名前としては最高のものだろう。このことは、私が近い将来課長に昇進することを暗示している。
 夕方、私はデスクの受話器をとった。
 「タクマ・リューキ・ニママ・イチセです。旧名のタユマ・リキ・ニママ・イチセを改めましたので、お知らせをと思いまして……」
 「あら、素晴らしいわ」
 電話の向こうから愛らしい声が響いた。私はあくまでビジネスを装って会話を続けた。
 「昨日電話で話した件につきまして、お話し申し上げたいと思います。ご都合はいかがでしょうか?」
 「今日なら、6時には会社を出られるわ。いつもの場所で待ってるわ」
 「かしこまりました。それでは、その時間にお迎えにまいります」
 ユアリ・クミミ・ナヤキ・マユキはいつものNJ88ホテルのロビーで私を待っていた。カウンターでチェックインを済ませて、彼女に目配せする。彼女は私がエレベーターに乗ったあとで手続きする。それが、私たちのいつものやり方だった。
 「ますます差が開いちゃったわね」ユアリがバスタオルで身体を拭きながら言った。「私は未だに可愛いだけが取り柄の女……」
 彼女の名には、満たされない生活への不満が常に漂っている。何度か名前が変わったが、その危険な香りだけは拭い去られることはなかった。
 「これで、課長は間違いなしね」
 「君だって係長目前なんだろう?」
 「だけど、いいとこ係長止まり。結婚したほうが得かなって思うこともあるわ」
 ユアリはタオルを椅子に放り投げて、ベッドに座る私の横に腰かけた。髪に残る石鹸の香りが、私の鼻をくすぐった。
 「私の人生は育った環境に規定されている部分が大きいのよ。両親の離婚、継母の希望していた学校に合格できなかったこと……」
 「また、カウンセリングかい?」
 「大学の同級生には、私よりいい名前をもってる人がたくさんいるわ。さっさと結婚して、夫の出世で名前が変わっていくのよ」
 「他力本願で名前が変わっていくわけだ。でもそれじゃ、離婚したとたんに元通りだぜ」
 「あなたの奥さんだってそうでしょう。でも、彼女は幸せ……」
 「今は君と幸せに過ごしたいな」
 私はユアリの肩ごしに乳房に手を延ばした。


 私が自分のマンションのドアの前に立ったのは10時を少しまわったころだった。真新しい表札がドアの横にかけられている。それが私に今日1日のことを思い出させ、自然に表情をほころばせた。
 インターホンのチャイムを鳴らしたが、返事はなかった。妻は買い物にでも出ているのかも知れない。彼女は昼間買い忘れた物を思い出すと、夜中でも24時間営業のスーパーに出かけていく。
 私は自分のもっている鍵でマンションのドアを開けた。部屋には明りが点けられていなかった。私はテレビのスイッチをひねり、ウイスキーを注いだグラスを手に、妻を待った。
 30分たっても妻はもどってこなかった。私の胸の片隅を初めて不安めいたものがかすめた。
 買い物にしては時間がかかり過ぎる。スーパーは、このマンションから歩いて3分もかからないところにあるのだ。事故? 犯罪? そんな悪い予感をふり払おうとしたとき、電話が鳴った。
 「タクマ・リューキ・ニママ・イチセです」
 「マニュラ・ハミビ・ママダです。MR98B地区管轄の98−67分署の者です」と、電話の声が言った。
 「警察の方ですか」
 「あなたはアラミラ・クミン・テレン・イチセさんの御主人ですね」
 「そうです。妻に何か……」
 「実は、奥さんが万引をはたらきましてね。今98−67分署に拘置されています」
 「妻が……万引?! まさか……」
 「さぞかし驚かれていることでしょうな……ま、初犯だからたいした罪にはならないでしょう」
 私は妻の身元引受人として警察署に赴いた。電話をくれたママダという名の刑事が妻のいる取調室へと私を案内した。妻は私の顔を見るなり、はっとして視線を逸らした。
 「さっき審判官が氏名変更の決定を下したそうだ」
 妻は視線をテーブルに落としたまま無言であった。私は彼女を促して帰宅の道についた。マンションに着いても、妻はまだ黙りこくっていた。
 「なぜ、あんなことをしたんだ……金に不自由させたおぼえはない」私は寝間着に着替えながら妻の顔を見ずに言った。
 「何か言ったらどうなんだ」
 「私、知ってるの」彼女も立ち上がって寝間着に着替え始めた。「あなたがほかの女の人と会ってるってこと……」
 今度は私が黙りこくる番だった。
 「あなたの帰りが遅くなるのが、決まって月の第1週と第3週の週末だって気づいたの。それで調査を頼んだのよ……」
 「その腹いせというわけか」
 「違うわ。どうしていいか、わからなかったのよ! 気が狂いそうだった。私、あなたと別れられないわ」
 妻は目に涙を溜めて私にしがみついてきた。
 「すまん」
 「ごめんなさい。ごめんなさい。もうしないわ。絶対にしないわ」
 「……」
 翌朝、登録局から2通の封書が届いた。なかには、私と妻との新しい名前を通知する書類が収められていた。


 私は出社すると総務課に赴き、管理局からの通知書を差し出した。
 「……ハユル・ラマイ・ニマイ・イチセか……。理由は聞かんよ。いちいち周囲の者に自己紹介するのは辛かろう。今すぐに名札をつくるから、そこで待ちたまえ」
 その名は、私のビジネスマンとしての地位をさほど損なうものではなかった。課長の地位は遠ざかりはしたが、ベテランの中間管理職としての確としたキャリアは、ちゃんとその名前の響きのなかに表現されていた。
 しかし、その名を声にしたときの響きには、以前の名前にあったあの華やいだ明るさが消えていた。希望とか生きがいとかいった未来への明るい見通しが薄らいでいた。それは、私が生まれてから用いた十数種類の名前にはなかった、初めて覚える感触だった。
 仕事が辛い、と私は初めて感じていた。私の気持ちをおもんばかってか、部下たちや同僚が私に話しかけるのを避けているのも、返って私の気持ちを暗くした。
 その週の木曜日、私はユアリに電話した。月に2度しか会わないという長いあいだの習慣を、私は初めて破った。
 「取引先との交渉もうまくいってない……俺より劣った名前のやつが相手のときでもだめなんだ……」ベッドで煙草を口にしながら、私はユアリに言った。
 「あなたらしくないわ……。ちょっとくらい名前のグレードが落ちたからって……」
 「そうじゃないんだ。この名前には影がある。俺はそれを悟られるのか怖いんだ……」
 私はユアリの身体を引き寄せ、乳房に接吻した。彼女の肉体を我を忘れて貪る私に、ユアリもいつになく激しく応えた。愛撫しながら、私は何度も彼女の名を呼んだ。
 ユアリ・クミミ・ナヤキ・マユキ――その名の危険な響きが、暗い影を帯びた私の名前と共鳴し合っていた。


 「おかえりなさい……」
 妻は私がマンションのドアを開けると、目を伏せたまま挨拶した。私の脱いだ背広をとって衣装棚に収めると、食卓のテーブルで無言のまま私を待っている。最近の妻は、そのまま就寝するまで一言も口をきかないことが多かった。
 だが、その日の彼女は私がテーブルにつくと同時に言った。
 「今日、ユアリという女を見たわ」
 私は夕食を口に運びながら、次の言葉を待った。
 「派手な感じの人ね。背も私より高いわ……」
 調査員を雇って調べさせたのだから、妻がユアリを待伏せて彼女を眺めたとしても不思議はない。
 「それで」私は感情をこめずに言った。
 「まだ会ってるんでしょう。知ってるわよ」
 妻は席を立って、私の後ろにまわった。
 「俺と別れたいか……」
 「だめ」妻は私の背中から両手を回した。「あなたは誰にもわたさないわ」
 彼女は、ワイシャツの胸元に差し入れた手をまさぐるように動かした。こんなふうに妻が媚びを売るのは久しぶりのことだった。まるで、新婚のころのようだったが、あのころの妻に感じた痛々しいような健気さはなかった。私がかわりに感じたのは、ある種の救いがたい退行――現実を失いかけた者の狂気に近づいたまなざしだった。
 私は妻の腕を物か何かのようにはらうと、ウイスキーの注がれたグラスだけを手にソファーに身体を移した。彼女はそんな私の仕草などまるで気にならないかのように、私の横に腰を下ろした。
 「あの人、もうあなたと会えないわ」妻の表情はがらりと変わり、目が私の顔を睨みつけていた。「刺してやった……」
 ソファーの上で飛び退いて妻の顔を凝視した私が、どんな顔をしていたのかはわからない。そんな私を見た妻が、なぜか少し悲しげだったことだけを覚えている。彼女はおもむろに立ち上がると、ポケットから大きなナイフを取り出して身構えた。
 「さよなら、あなた」


 目を覚ますと、私は病院のベッドに横たわっていた。
 「気がつかれましたか……」
 白衣の医師らしき男の横に背広姿の男が立っていた。起き上がろうとすると、ひどい頭痛が私を襲った。
 「98−67分署のマヌル・ハミル・カギリマ・ママダです。おっと、まだ横になってらしたほうがいい」
 「医師のツグヨシ・カーマ・モト・ハマサキです。あなたは頭を打っているんです。たいしたことはありません。その頭痛もすぐになおります」
 「頭を打ったのですか……」
 「テーブルにぶつけたらしいですな。もっと堅いものだったら危なかったかも知れない」
 私の脳裏に、ナイフを手に襲いかかってくる妻の姿がよみがえった。
 「妻は……逃げたのですか?」
 「いいえ。彼女はこの病院にいますよ。奥さんのほうが重傷だ」
 「怪我を?」
 「刺し傷です。あなたが刺したんだ」
 私は意外な事態に驚愕した。これで刑事が来ているわけもわかった。このままでは、全面的な加害者にされかねないと思った私は、慌てて自分を弁護した。
 ユアリとの浮気のこと、それが原因の妻の万引のこと。妻がユアリを刺したと言ったこと。しかし、刑事は私の言い訳を聞くのに、あまり熱意はないようだった。
 「知っていますよ。だいたいの事情はね。あなたの奥さんの万引の件を担当したのは私だったんですから」
 そう言えば、刑事の顔には見覚えがあった。
 「前にお会いしたときと名前が変ったので、おわかりにならなかったのかな」
 そうだ。あのときのこの刑事の名はミドル・ネームが一つしかなかった。要するに、たいした学歴や職歴のないことを想像させる、たたきあげの匂いがプンプンするような名前だった。さっき聞いた名前は、比べものにならないくらいよくなっていた。何か、よほど大きな手柄を立てたのだろう。
 「奥さんには、あなたを殺したいと思うような事情があった。多少ノイローゼ気味だったようでもある。しかしね――」彼はそこで言葉を切って、私を斜めに見た。「あなたにも奥さんを殺したい理由はあった。そうでしょう。愛人がいたうえ、奥さんはついこのあいだ万引であなたの名前にケチをつけたばかりだ……いや、あなたの言い分を信じないわけではありません。ただ、我々としてはあなたと同様、奥さんの言い分だって聞く義務があるのです」
 「妻がそんなことを言っているのですか?! 私が妻を殺したいと思っていたと? とんでもない。第一、妻はユアリを刺したんですよ」
 「ユアリ・クミミ・ナヤキ・マユキさんは、確かに手の甲にちょっとした傷をつくって通院しています――いや、マユキさんへの事情聴取の際に手の包帯が気になったものですから訊いておいたのです。彼女は、包丁で切った傷だと言っていますよ。単なる事故ですな」
 嘘だ。ユアリも嘘をついたのだ。不倫の果ての障害事件の被害者になって、今より悪く改名させられるのが嫌だったのだ。
 「目撃者のいない事件ですからね。審判官は両方の証言を配慮して結論を出すでしょうよ」
 私はその日のうちに退院して家に帰った。妻には、会うどころか、病室の場所を訊ねる気にもならなかった。カーテンを閉めきったままの部屋は、ひどく暗かった。私は、その闇のなかで蹲ったまま、何時間も過ごした。刑事が最後に言った言葉が気になっていた。
 ――審判官は両方の証言を配慮して――
 審判官が妻の言葉を配慮するということは、私は殺人未遂を犯したのかも知れない人間として処断されるということだ。こういう事件の場合、登録局は罪のあるなしに白黒つけるのに熱心ではない。
 ちょっとした窃盗とか痴漢などの罪は、普段はまったくの善人がつい出来心で犯すかも知れない。それだけに、立派な市民の経歴に汚点をしるしてしまう可能性も高く、捜査は慎重に行われることが多い。それに較べて、殺人や暴行、傷害といったような罪に問われる者は、だいたいがそういう事件にまきこまれるような生活態度の欠陥があるとみなされる。証拠や証言から罪が完全に証明できなくても、その「疑わしさ」に応じた程度の罰を与えてやればよい――登録局審判部の考え方は、だいたいそんなふうであった。
 眠れない夜が明けるころ、私が恐れていた〈罰〉が1通の封書に収められてやってきた。私は震える手で封を切り、なかの通知書を開いた。
 ガライ・イチセ。
 思ったよりずっとひどい結果だった。
 ミドル・ネームが一つもないのは、大学生にも劣る。それに、この名の暗く重く恥辱にまみれた響き。不幸と不運に満ちた人生と、それがために歪みきった人格を想起させる、なんとも嫌な響きがある。
 私はマンションの部屋の表札を外した。かわりに新しい名前を飾る気にはなれなかった。会社にも行かず、閉じこもりっきりの日々が1週間も続いた。
 会社からは何の連絡もなかった。会社は、事件のことを知っているのかも知れない。このまま出社しなければ、退社扱いにするつもりなのだろう。
 一度だけ、妻のいる病院に電話をした。ガライ・イチセという名を名乗るのは、思った通り、ひどい苦痛だった。
 妻はすでに病院からいなくなっていた。


 冷蔵庫に買い置きの食料が尽きた。私はひそひそと隠れるようにして、久ぶりの街に出た。普通の店で買物をすることはできない。人と話すときは、たとえそれがちょっとした買物のためであっても、名を名乗るのがルールだからだ。まして、外食など論外だった。ながながと店員や客のさらしものになるのはまっぴらだ。
 私はスーパーマーケットで買物をすることにした。それも、普段は行くことのめったにない、マンションから2キロほど離れた店に向かうことにした。
 さいわい、知合いには会わなかった。会って声でもかけられようものなら、この惨めな名前を相手に告げるか、それともまったく無視するしかない。
 途中、小さな酒屋があった。私は思わず店先で立ち止まって、その店を眺めた。酒が欲しかったが、店に入るのはためらわれた。私は仕方なく店の前を通り過ぎた。こんなときに限って、酒を売る店ばかりが目についた。
 しばらく歩いていると「スイッチ・オーダー・バー」と書かれた看板があった。見ると、店の奥にスタンドがあって、昼間だというのに何人かの男たちがグラスを傾けていた。
 話には聞いたことがあった。スタンド・バーの一種だが、酒の注文はカウンターの上のボタンで済ますことができるのだ。当然、バーテンと会話を交える必要はない。集まってくる客は、誰にも名前を告げたくない連中ばかりだと聞いた。
 私はフラフラと店の奥に入り、カウンターの一角に座った。
 カウンターの上にコインや紙幣を投じる穴があった。金を入れてやると、その代金で注文できるメニューがカウンターの上に青く浮かび上がった。ウイスキーと書かれたところを指で軽く触れると、今度はそこのところが赤い光を発した。私の前にやってきたバーテンが、無言でロック・グラスに酒を注いだ。
 10杯近くも飲んだだろうか。肴で空腹も癒えた私は、最後に「テイク・アウト」のボタンを押してウイスキーを1本買い、マンションに戻った。
 それから、酒浸りの毎日が続いた。
 ときには、職を探して再起をはかる気分にもなったが、職安で係員に「ガライ・イチセ」と告げる場面を想像すると、どうしてもマンションを出る気にはならなかった。そんな自分に嫌悪感をもよおしては、また酒を飲む。
 半年がたった。マンションの家賃の滞納通知が2度届いていた。
 収入の道はとうに断たれていたが、今までは預金で食いつなぐことができた。しかし、それも長続きはしないだろう。
 妻が離婚の申請をしたのである。離婚条件にたいして異議申立てをしなかった私は、妻の思うがままに財産を奪われる立場になっていた。
 民事審判局の執行官がマンションを訪れたのは、それから間もなくのことだった。彼は自分の身分と三つもミドル・ネームのついた仰々しい名前を私に告げ、私物のいっさいを差し押さえると宣言した。滞納していた家賃と、妻に分与する財産に当てるためだった。最後に、執行官の後ろにいた家主の男が、マンションの賃貸契約を打ち切ると私に言い渡した。


 それから、どのくらいたったのかわからない。気がつくと、私はMP57地区の荒れ果てた市街に流れ着いていた。そこは人の住まなくなった旧市街で、街のどこからも私の住んでいたMR98B地区の高層マンションがよく見渡せた。
 厳密に言えば、人がまったくいないわけではない。聞くに耐えない名前の連中が、まばらにうろついている。MP57地区は隣接する地区が歓楽街であるため、少し遠出すれば簡単に残飯が手に入るのだ。
 この地区のことは以前テレビで観たことがあった。人と話すこともなく、働くこともない人生の落伍者たち。救いようのない連中だ、と妻と話したこともあった。
 今、私はその救いようのない連中の一人になって、夜明けになると残飯を求めて歓楽街の裏通りに出かけていくのだった。
 この街に住む者は、お互いに話をするということがまったくなかった。毎日顔を合わせるどうしでも、知らぬふりですごすのがこの街の礼儀だった。誰しも自分の名前を口に出すことを死ぬより嫌がっているのだ。
 だが、ただ一人例外がいた。そいつは初老の男で、薄汚れたビニール袋に食い物を持ち帰る者を見つけては声をかけるのだ。声をかけられた者は露骨に嫌な顔をするのだが、男はしゃべくりながらしつこく後をついていく。とうとう頭にきた相手に殴られている光景も何度か見た。
 そんなところを見ても、同情する気にはまるでならなかった。この街では、この男は犯罪者よりたちの悪い秩序の破壊者なのだ。嫌なやつだと思うだけだった。
 ある日の夕方のこと、そいつがとうとう私の傍らにやってきた。
 捨てられた酒瓶から集めた安ウイスキーを飲んで酔いがまわっていた私に、そいつはいかにも軽い調子で声をかけた。
 「あんたの名前はオルホルだ」
 私は男には一瞥もくれずに酒を飲み続けた。
 「いや、あんたの名前が今は違っていることは知っている。でも俺はあんたをオルホルとよぶことにする。不都合はないだろう?」
 思っていた以上にとんでもないやつだ。他人を勝手な名で呼んで、話しかけるとは……。絶対に許されないことだ。
 「俺の名はティムルだ。呼びたければ、そう呼んでくれ。いい名だろう。俺の子供のころの名前だ。純粋無垢ってやつだ」
 子供の名前というのは、それを聞く者にまったくの無垢を感じさせるようにできている。よくも悪くもない真白な名前――子供が最初に使う名はそういうものが選ばれている。
 「あんた、今はさぞかし嫌な感じのする名前をつけられているんだろ。同情するよ。だから、あんたが俺と話すときには、自分はオルホルだってことにすればいい。そうすれば楽だろう。ついでにあんたの背負っている嫌な名前のほうは捨てちまえば、もっといいんだがな」
 「そういうわけにはいかない」私はつい彼に向かって言葉を発していた。次の瞬間には深い後悔にとらわれていたが、すでに遅かった。「……私はガライ・イチセだ……」
 「ほう。こりゃまた随分ひどい名前をもらったもんだな。子供っぽくても、オルホルのほうがずっといい」
 「大きなお世話だ。確かにひどい名前だが、それでもこれは俺の名前だ。俺のこれまでの人生がこの名のなかに集約されているんだ。偽名を名乗ることは、自分を捨てることだぞ。このひどい名前より、さらに自分を貶める行為だ」
 「本当に、あんたそう思っているのかね」男の表情のなかには小馬鹿にするような笑いが浮かんでいた。「あんた、自分が本当にその汚らしくて危なっかしい名前に――そのガライという名前にしか値しない、そう思っているのかね?」
 男が口にした私の名前に、私は思わずたじろいだ。
 「名前といっても、ただの音の羅列に過ぎない。それなのに名前の音だけに価値がついてまわるのは、ガキのころからの催眠教育のせいだ。つまり、名前のグレードなんてものはただのからくりなんだ」
 「そんなこと、誰でも知っていることじゃないか……」
 「誰でも知っていることだが、誰もそれに逆らえん」
 「それが社会の秩序にとって重要なことだと、皆知っているからだ。その人間の社会的地位やキャリアが名前を聞くだけでわかる。それだからこそ、この社会ではすべてが円滑に行われているんじゃないか」
 「それじゃ、あんたがそのひどい名前を背負って生きるのも、社会とやらのためだってことだ。でも、社会は今やあんたなんて全然必要としていない。そうだろう。今のあんたに社会とやらに義理立てする必要があるのかね」
 「俺だって、いつまでもこのままでは……」
 「ガライ・イチセという名の男を雇ってくれる会社があると思うかね? 思っているとしたら、あんたよほどのバカだ」
 「……あんた何者だ……」
 「今はただのティムル。だが、昔は登録局の役人だったんだ」男の表情には屈託のない笑いが浮かんでいた。「あんたがたの名前をコンピュータに弾き出させるのが仕事だったのさ。ちょっとした私生活の失敗が重なってね。三つのミドル・ネームを召し上げられて、今は――」
 それは口にするのも憚られるくらい嫌な響きをもった名前だった。こんな名を与えられて、よく生きていられるものだと思った。
 「さてと……食い物を探す時間だ。それじゃあな、オルホル」
 男は夕闇の迫った街のビルの谷間に消えていった。
 オルホル……オルホル
 男の後姿を見つめながら、私は「オルホル」という名を心の中で繰り返していた。
 その名を名乗るには、これまでの人生に費やしてきた10倍もの勇気が必要だろう。自分に、そんな勇気が備わる日が巡ってくるだろうか。私にはまるで自信がなかった。
 私は寝ぐらにしているビルの1階の吹抜けに穴だらけの毛布を敷きつめて、寝る用意をした。こんな自分には、やはりガライという名が相応しいのかも知れない――そんな考えが頭をかすめた。
 ビルのあいだを吹き抜ける冷たい風が、私を震わせた。
 冬が近づいていた。


COPY RIGHT:六高寺 弦 ROKKOJI Gen
E-MAIL ADRRESS:rkj@ezoya.co.jp

BACK TO TOP