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 商業誌掲載作品。
 徳間書店の「グリフォン」という短命だった小説誌の公募小説として採用、掲載された。公募の条件として、掲載作品の著作権が徳間書店の帰属になるため、公表をためらっていたのだが、当時の撰者の方が「さしつかえないと思う」とのことなので公開することにした。
 書き手自身が言うのもへんだが、よい作品だと思う。
 が、「よい作品だ」ということが私にとって必ずしも「よい」ことであるわけではない。私は、この作品以降結局これ以上の水準の作品を書くことができないでいる、と感じているからだ。
 技巧的により優れた作品、あるいは意外性に満ちた作品なら、まだまだものにできるだろう。しかし、人生にとって本質的なテーマのひとつと真正面から取り組むような作品で、私はこれ以上のものを書けるのだろうか?
 これは、おそろしくて哀しい想像だ。それこそ、この作品そのもののように。


君去りし夏の香は

 波の音。風の調べ。
 砂を撫でる潮の香り。
 雲に隠された夏の太陽が、いつもより少しやさしい光を浜辺に投げかけている。
 わたしは足の下の乾いた砂の感触を確かめながら、浜辺を歩いていた。
 白い服を着た若い女が一人で海を眺めている。
 わたしはずっとうしろから、彼女の背中を見つめいてた。
 「行ってしまうのかい……」
 つぶやいたわたしに、彼女の肩が少し揺らめいて見えた。
 「いいえ」背を向けたままの彼女の声が聞こえた。「どこにもいかないわ」
 いつの間にか、わたしは彼女に近づき、うなじに手をやっていた。
 その手に彼女の白い指が重なる。
 染めていない短い爪の桜色が眩しかった。
 「歩きましょう」
 彼女は砂の上の麦藁帽子を拾い上げて、立ち上がった。
 「ああ」
 初めて彼女の顔が目に入った。帽子の下で飾り気のない素肌が輝いている。夏には似合わないその白さが、わたしには返って太陽の輝きを映しているかのように見えた。
 わたしたちは、しばらく何もしゃべらずに砂浜を歩いた。泳ぐには一番いい季節にもかかわらず人影はまばらで、すれちがう人も少なかった。
 「あなたの詩、読んだわ」
 砂浜のはずれにある堤防に着いたころ、彼女が言った。
 「ほら、あの雑誌に載っていた詩よ」
 「『彼方へ』かな?」
 「そう。素敵な詩だった……」
 「今度、三冊目の詩集が出るんだ。会社も辞めようと思っている」
 「詩人になるのはあなたの夢だった。とうとう夢を果たすのね」
 「詩はたいして金にならないけど、田舎に住んでやりくりすれば何とかやっていけると思うんだ」
 突然、彼女はすばらしく軽やかな動作で、堤防に昇る階段を駆け上った。たっぷりとした白いスカートが潮風を孕み、一瞬あらわになった彼女の美しい脚がわたしの胸をときめかした。
 「風が気持ちいい。あなたもこっちに来て」
 堤防からは、その両側にある長い浜辺が一望に見渡せた。海に突き出た堤防の先の方には数羽の海鳥が佇んでいて、そのそばで小さな子供を連れた家族が弁当を開いていた。
 「風はあなたの詩のテーマになる?」
 「なるさ。でも、こういう風は詩にしたことはないな」
 「わたし、風が好き」
 彼女は両手を広げ、胸いっぱいに風を受けながら踊るようにくるくるとまわった。
 その彼女の足元に、青いシャツの男の子と女の子が笑い声を立てながら駆け寄ってきた。妹に追われた男の子は、彼女を盾にしながらそのまわりをくるくると回った。
 「だめよ、英輔ちゃん」母親が遠くから男の子に言いながら、わたしたちにぺこりと頭を下げた。
 ばつが悪そうに母親のほうを見た男の子の顔に見覚えがあることに、わたしは気づいた。
  ――ああ、そうか。この子、中村さんなんだ。
 わたしは白髪頭の老人の中村さんしか知らなかったが、その男の子の眉のあたりには確かに中村さんの面影があった。わたしが男の子の顔をまじまじと見つめると、彼はちょっと迷惑そうにわたしから目を逸らした。
 「どうも、すみません」
 母親がやってきて男の子の手をとっていた。
 「ほんとにやんちゃで困るんです」
 わたしは母親の顔にも、見覚えがあることに気がついた。
  ――この人もホスピスの患者の誰かなのだろうか。
 「ほら、おまえも謝るんだ」
 いつの間にか、やってきていた父親が男の子の頭を掌でぐいと押して、お辞儀させた。
 父親の顔のほうは、はっきりとした記憶があった。
 見間違うわけがない。それは、四十代に入りかけたころの、わたし自身の顔であった。
 と、同時に、母親の顔が鮮明にわたしの記憶と重なった。
 思い出したくない顔 ――別れた妻の顔だった。
  ――何でこんなものを見なければいけないのだ。
 わたしは気持ちを切り換えようと、傍らの彼女のほうを見た。
 彼女の全身が薄ぼんやりと雲がかかったように、ぼやけて見えた。
 「玲子!」
 彼女の返事はなかった。
 「だめだ。行かないでくれ」
 しだいに透き通ってゆく彼女の姿に海の風景が重なり、やがて彼女の姿はすっかり消え果ててしまった。
 見ると、さっきの親子は何事もなかったような笑顔をわたしに向けている。
 わたしは彼らを無視して、掌の上ををじっと見つめた。そこにホスピスのシステム・ルームに通じるスイッチがふわりと現れ、しだいに実体化していった。
 わたしはそれを握ると、親指に力をこめて帰還のためのボタンを押した。

     *

 白い壁に沿って並べられたいくつものベッド。
 隣室のナース・センターから心臓モニターの電子音がかすかに聞こえている。
 井上美佳穂は一人の患者のベッドの前で、彼の意識が戻るのを待っていた。
 背の高い男の医師が、横たわる男のはだけられた胸に聴診器を当てている。
 「心臓がだいぶ弱っている」と男が言った。
 「意識を現実に戻すのは、患者にとって好ましいことじゃないのよ。病苦を感じないで済む仮想空間から戻ると、弱った身体の負担がいっぺんに意識に覆い被さって、それが患者の精神力を弱めてしまうの」
 「意識が戻ったようです」患者の枕辺にいた看護士が言った。
 「あとは任せるよ」
 医師はそう言って立ち去った。
 「動かないでくださいね、庄司さん。今、装置をはずしますからね」
 美佳穂の指示で、看護士が枕のかわりに患者の頭を支えていたプラスチックのヘルメットをはずした。
 「また戻ってきちゃったのね……」
 美佳穂は看護士と場所を代わって、患者の枕辺の椅子に座った。わずかな白い頭髪が残っているだけの頭が動いて、彼女のほうを見た。老人の目は落ち窪み、手も足もひどく痩せ衰えていた。
 「ここじゃ、身体が重いな。ひどく重い……わたしはまた悪くなったみたいだ……そうなんだろ、先生」
 「そんなことはないわ。誰でも仮想空間から帰った直後はそんな気がするのよ」
 「そうか。先生は医者じゃなかったな」
 白衣は着てはいるが、美佳穂は医師ではなく、仮想空間システムを担当している技術者だった。
 「庄司さん、また何か見たくないものでも出てきたの?」
 「夢の中に女房が出てきたんだ……」
 言葉をしゃべるのも苦しげなようすだった。あまり長く現実に戻しておかないほうがいい、と彼女は思った。
 「浮気した上に、離婚にもなかなか応じなかった妻だ。不愉快な顔だよ」
 「奥さんは一人で現れたのですか」
 「いいや、ご丁寧にもわたし自身といっしょだったよ。息子や娘たちは、なぜか別人だった」
 庄司はそこで言葉をとめ、何度か深く呼吸した。
 「問題は離婚した奥さんだけじゃなさそうね」
 「先生、女房が出てくるのは我慢できる。ずっと忘れたいと思ってはいたが、二十年も連れ添った女だ。わたしの記憶に残るあれの思い出を機械が拾ってしまうのだろう。しかし、あれの顔に気づいたとたんに、一番大事な人がかすんで、消えてしまったんだ」
 「一番大事な人って、とてもきれいな人らしいわね」
 美佳穂の言葉は庄司には意外だったらしく、彼は少し驚いたような顔をした。
 「ごめんなさい。同じ仮想空間に入っている菅原さんに聞いたの」
 美佳穂は必要があれば、自ら仮想空間に入って患者のようすをうかがうことがある。庄司の恋人の話も、仮想空間に「出張」した際に聞いたものだった。もっとも、彼女に関するほとんどのことは、庄司秀樹の固有環境データから知ることができたのだが。
 「わたしはね、先生」
 老人はベッドの手すりにつかまって身を起こそうとした。
 「あの人以外は何もいらないんだ。あの人と暮らせさえすれば、あとはどうでもいい。 余計なものは削ってほしい」
 美佳穂は手助けして、彼の上半身を起こしてやった。
 「仮想空間の固有環境はあなたの記憶や思念の反映なのよ。前の奥さんが仮想空間に現れると、その大事な人が消えてしまうのは、あなた自身が心のどこかでその人と会うことに罪の意識を感じているからかも知れないわ」
 「罪の意識か……無意識にしても自分がそんなものを抱いているなんて、とても思えんのだがな……」
 「とにかく、前の奥さんのデータは仮想空間から強制排除するように設定しておきます。それと、あなた自身の壮年時のキャラクターもね」
 「そうしてくれ」
 「すぐに仮想空間に戻りますか?」
 「ああ。だが、その前に鏡が見たい」
 「鏡、ですか?」
 「ああ」
 美佳穂はそれ以上わけを聞かずに、看護士に目配せして手鏡をもってこさせた。
 庄司秀樹は看護士のもつ鏡の中を、少し寂しげな表情で覗きこんだ。
 この人の人生に欠けていたものはいったい何だったのだろう、と美佳穂は思った。
 一流の大学を出て大会社に勤め、重役にまで出世し、子会社の社長までやった人だと聞いている。最初の結婚はうまくいかなかったが、社会人としては成功し、再婚した妻と娘たちにも深く愛されている。
 それなのに、この最期の時に彼が望んだのは、初めて社会に出たころ一年ほど恋人同士だった女性と、つつましい時間を過ごすことなのだ。
 この仕事をしていると、人の想いの奥深さというものに圧倒されることがある。ことに、長い人生の果てに死と向かい合っている老人には。
 「もういい」
 老人は鏡から目を背けて言った。
 「また夢を見させてくれないか」

     *

 波の音。風の調べ。
 こうして庭の縁側に座っていても海の香りがする。
 わたしは浴衣姿で扇風機にあたりながら縁側に原稿用紙を広げていた。
 昨夜、布団の中で思いついたアイデアを詩にしようと思っていたのだが、それがどうしても思い出せないでいた。
 完成したら、発表せずに玲子に贈ろうと思っていたのに。
 わたしはすぐに布団から起き出してメモをとらなかった自分の怠惰を後悔した。
 玄関の引戸を開ける音がした。
 「秀樹さん、いるの?」
 彼女の声だった。
 「ああ」
 わたしと同じ浴衣を着た彼女が買物かごをもったまま、縁側にやってきた。
 「お夕飯、作ろうかなって思って」
 「そう……でも、少し早くないかい」
 「今日はお盆で、村のお寺に夜宮がたつのよ。用意しておけば、帰ってきてすぐに食べられるでしょう」
 誘われた覚えはなかった。玲子はこういうことをはっきりとは言えない質の女だった。
 わたしは、台所に立つ彼女の後ろ姿を見ながら、詩作を中断して煙草をふかした。
 「君が料理をするところは、初めて見るな」
 「あら、ここではもう何度も作ってあげているわ」
 「ここって?」
 「あなたの夢の中よ」
 確かに、男の家で初めて料理を作るにしては、台所の彼女のそぶりは落着いていた。こうしているわたしの胸にあるものも、悦びというよりは日常の安堵感といったものに近い。玲子はわたしの生活に溶けこんだ存在として、そこにあるようだった。
 「ひとつ、訊いてもいいか?」
 その安堵感が、何度も〈夢〉の中で会いながらまだ一度もしていない質問を、わたしの口にのぼらせた。
 「君はなぜぼくの前から消えてしまったんだ。ぼくが詩人になるなんて、ばかな夢を追っていたせいなのか?」
 「いいえ」
 玲子は俎板に向かったまま答えた。
 「あなたは一流大学を卒業したエリート社員。わたしはただの煙草屋の看板娘。夏の海で知り合って、お付き合いしたけど、あなたはわたしには眩しすぎたの」
 「大会社に勤めていると言っても、あのころのぼくは詩にばかり夢中の落ちこぼれ社員だった……」
 「詩……あなたの詩、大好きだった。あなたは溢れるような才能に恵まれ、わたしの手の届かない世界に住むはずの人だったの」
 「そんなこと……あるもんか」
 「もう、いいじゃないの」
 彼女は声を明るくして言った。
 「ここでは、あなたは詩集を何冊も出している詩人で、わたしはあなたのそばにいるのよ」
 「そうだな……」
 彼女が夕餉の支度を終えるころ、村の寺院の方角からかすかに夜宮の賑わいが聞こえてきた。
 「行きましょう」
 「うん」
 海辺の村人たちのほとんどが菩提寺としている寺は、村はずれの小高い丘の上にあった。丘の麓から続いている長い石段に沿ってたくさんの石灯籠があり、今日はそのそれぞれに明りが灯されている。
 「きれいね」と彼女が言った。
 石段に設けられた夜店と浴衣姿の村人たち。石灯籠はあたかも、彼らの営みを守るかのように、暖かい光で山門に続く人々の列を包んでいた。
 わたしたちは手をとって、石段をひとつひとつ数えながら上っていった。実際に彼女と付き合っていたころには、こんなふうに手をつないで歩いたことは一度もなかった。
 「かき氷、食べたいな」
 「うん。買ってきてくれ。ぼくはイチゴがいい」
 浴衣の帯に挟んだ財布から、とうに見かけなくなったはずの大きな五十円玉が出てきた。
 「待っててね」
 五十円玉を握りしめた彼女が、長い髪を背に揺らしながら石段に下駄の音を鳴らした。
 かき氷売り店の前で、彼女は色鮮やかなシロップに見とれているようだった。
 どんな光や色も、彼女の心を動かさずにはおかないのだ。
 美しい人だと、わたしはあらためて思った。
 実在の彼女はわたしの前から突然姿を消してしまった。
 わたしは彼女を追おうとしなかった。仕事と詩作の両方をかかえていたそのころのわたしには、玲子の存在が断ち切るべき誘惑のように思えたのだ。
 彼女はわたしに追いかけてきて欲しかったに違いない。それなのに、わたしは彼女を追わなかった。彼女の内と外の美しさを十分に知りながら ――若さゆえの愚かさの苦い思い出だった。
 彼女がわたしの前から消えた本当の理由はわからない。
 〈夢〉の彼女が語ったのは、わたし自身が望んだ理由を映したものだったのだろう。詩を捨てて壮年になったころ、わたしの中で再び輝きを増していった彼女の面影 ――わたし自身も玲子の中で輝いていたかったのだ。
 「はい、これ」
 彼女が赤いシロップのかかったかき氷を、うれしそうに差し出した。
 「わたしはレモン」
 彼女の背を見つめるわたしの視線を、もんぺ姿の女性が横切った。古い海軍の制服を着た背の高い男が彼女の手をとっていた。
 ふたりは夜店の屋台のひとつひとつに立ちどまり、ビー玉やヨーヨーなどの他愛ない品々を眺めながら、山門のほうへと石段を昇っていった。
  ――菅原さんだ。
 わたしは戦争中の服装をしたその若い女性が、同じホスピスのベッドに骨と皮ばかりになって横たっている百歳にもなる老女であることに気がついた。
 「また、行ってしまわれるのですね」  彼らはわたしたちよりずいぶん前を歩いていたが、声ははっきりと聞きとれた。
 「明日、出港の予定だ」
 「今度はどちらに ――ああ、それは訊ねてはいけないのでしたわね」
 「必ず生きて帰ってくる。心配はしないで欲しい」
 「あなたこそ、家の心配はしないで、立派にご奉公してくださいな。わたし、わかっています。あなたは絶対に死んだりしないって……」
 わたしは、見舞いにやってきた菅原さんの孫から彼女のことを聞いたことがあった。南の海に出征した彼女の夫はとうとう帰って来なかったのだ。彼女に二人の息子を残したまま……。
 「浜のほうへ行ってみません?」
 玲子が私の浴衣の袖を引いた。
 「もうすぐ灯籠流しの時間よ」
 浜に着いたころには灯籠流しはすでに始まっていた。
 大勢の村人たちが、浴衣の裾をまくり上げて海に入り、木と紙で作った盆灯籠を海に放っていた。
 海流に乗った灯籠が、光の流れを成し始めている。それは村人たちの先祖の魂に黄泉に続く道を示すかのように、海を割り裂いて水平線へとのびていた。
 「きれい……天の川が海に落ちたみたい」と彼女が言った。
 わたしは黙って彼女の肩を抱き、浜へと歩いた。
 「英輔ちゃん、あまり深いところにいっちゃだめよ」
 背後の声に、海に灯籠を流している村人たちの中から、一人の男の子がふり向いた。彼は小さな妹の手をとり、もう一方の手で盆灯籠をかかえ持っていた。
 「深みにはまるとあぶないからね」
 不意に男の子とわたしの目が合った。
  ――中村さんだ。
 わたしは彼の名を呼ぶ声がした方を見て、母親の姿を探した。
 声の主は、小さな兄妹の母親にしては、いささか老けて太った女性だった。わたしの妻ではなかった。
 わたしは再び中村さんの方を見た。堤防のときと違って彼は迷惑そうな顔もせず、わたしに向かって笑顔を投げかけていた。  後ろを向いて灯籠を海に下ろし、再びわたしと目を合わせると、彼は両の手を膝に乗せて、突然わたしに深々とお辞儀をした。
 「あ」
 と、わたしは小さな悲鳴を上げた。
 頭を上げてわたしに見せた笑顔を最後に、海に立っている男の子の影が薄くなっていった。
 彼の姿を通して灯籠の光が見え始めたかと思うと、次の瞬間、彼はもうそこに立ってはいなかった。
  ――中村さん……。
 わたしは手を合わせて、彼の消えた海に祈りを捧げた。
 見ると、彼の小さな妹の姿もそこにはなく、浜辺で彼に声をかけていた母親の姿も消えていた。
 彼らは中村さんのための〈夢〉だったのだ。〈夢〉の主の命が尽きた今、彼らもここにいる理由を失ったのだった。
 「そろそろ、帰ろうか……」
 「どうして? まだ、たくさん灯籠が流されるのよ」
 玲子は中村さんが消えたことなど、まるで関心がないかのようだった。
 それは当然のことなのだ。玲子もまた、わたしだけのために存在する〈夢〉なのだから。
 「ひとりで帰るよ」
 わたしは浜に背を向け、歩き出した。
 「待って。どうしたの」
 玲子は突然冷たくなったわたしの態度に驚いたのか、早足でわたしについてきた。
 「そんなに早く歩かないで」
  ――なぜ、ついてくる。
 わたしは、初めて夢の中の彼女を疎ましく感じていた。
 「ねえ、行かないで」
 背後から聞こえる玲子の声は、ほとんど泣き声に近かった。
  ――なぜ、消えてしまわないのだ。なぜ、泣いたりする。おまえはわたしの望みが形をなしただけの幻影に過ぎない。
 わたしは意を決して、うしろをふり向いた。
 玲子に向かって罵言を浴びせるつもりであったが、わたしが見たとたん、彼女はわたしに悲しげな一瞥を残して、闇の中へと消えてしまった。
 わたしは歩度を緩めて、家へと歩いた。
  ――玲子を愛している。
 わたしは胸の中で独りごちた。
 わたしの望むように〈夢〉に創造された玲子をではない。ときには諍い、ときには憎み合っても、本当の玲子を愛したい。若くなくともいい。今なら、実際の自分同様、老いさらばえて死の床にある玲子でも愛せるだろう。
 人影が絶え、片付けられつつある夜店の前で、わたしは頭をかかえて蹲った。
 家路につく人々が、わたしの前を通り過ぎていく。
 このうちの幾人かは死を待つばかりの老人で、それ以外はすべてまやかしの〈夢〉なのだ。
  ――わたしは、いったい何を望んでいたのだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えていたわたしの目に、一組の男女がとまった。
 「玲子……」
 男の顔は見えなかったが、あれは確かに玲子だった。
 「玲子!」
 女がふり向いて、わたしを見たような気がしたが、彼らの姿はすぐに人波の中に消えてしまった。
 これはひどすぎる。玲子を拒否したわたしに、〈夢〉は復讐しているつもりなのだろうか。
 〈夢〉へのわたしの疑問は怒りに変った。
 わたしは再び足速に歩いて自分の家に戻ると、掌を見つめてセンターを呼び出すスイッチを押した。自分が現実に戻るのではなく、〈夢〉の中に技師を呼ぶためのスイッチである。
 しばらくすると、わたしの夢を担当している女性技師が畳の上に現れた。白衣にメモを挟むボードをもった勤務中そのままの姿だった。
 「どうしたんですか、庄司さん」
 彼女は畳に胡座をかくわたしの横に座った。
 「君たちは、ぼくに悪夢を見させるつもりなのか」
 わたしは、自分の見たままのことを話した。海に消えた中村さんのこと。わたし以外の誰かと寄り添っていた玲子のこと。
 「庄司さん……ごめんなさい」
 彼女はわたしにやさしく語りかけた。わたしは語調も荒く抗議したことを、少し後悔した。この人はわたしたちに対して、心から親身になってくれる人なのだ。
 「中村さんのことは、システム上どうしようもないことなの。仮想空間を共有するからには、ほかの人の亡くなる瞬間に立ち会う可能性は排除できない。でも、あなたの大事な人のことは……」
 「ぼくが、彼女がほかの男といることを望んでいるとでも言うんじゃないだろうな」
 「それは理論的可能性のひとつだけど……」
 「まさか。あり得ないことだ」
 「庄司さん、このシステムは患者さんの一番快適と思う環境を自動的に作り出すように設計されているけど、まだ百パーセント完全とは言えないの。もし、あなたがあの女性にたいして、二つの矛盾するイメージをいだいているとしたら、彼女が仮想空間内部で分裂して二人になってしまう可能性は確かにあるわ」
 そう言われてみれば、わたしはずいぶんと長いあいだ玲子のことを想像して生きてきた。誰と結婚して、どんなふうに暮らしているのか、子供は何人いるのだろうか ――わたしのために理想化された玲子を拒否したのが悪かったのだろうか。そのことが、わたしがさまざまに思いめぐらしていた想像の玲子を〈夢〉に出現させてしまったのかも知れない。
 「とにかく、あなたに関するコンピューターの環境設定と採録した記憶資源を調べてみることにします。こういう現象の発生を防ぐ方法はないけど、一度起こった現象を指定して排除することなら、そう難しくはないわ」
 「もう、彼女に会うのはやめようかと思っている……」
 「庄司さん……」
 「夢にはとどまりたい。ここでは身体が軽いし、何もかも自分でできる。食べなくても腹も減らない。ぼくはこの家でひとりで終わりたい」
 わたしの言葉に、彼女はひどく困惑した表情を見せた。
 「先生、ここの末期医療の目的は死を待つ者に自分の望む夢を見させて、死の運命を忘れさせることなんだろう。でも、それでいいんだろうか。人は、やがては老いて死を迎える。誰にでも死は必ずやってくる。死ぬことは、成人式とか就職と同じで、生きていればいつかはくぐらなければならない人生の最期の門なんだ。大事なのは運命と向かい合う勇気をもつことじゃないのか」
 彼女はわたしの言うのを、真剣な顔つきで聞いていた。
 「そうね……でも、人はそれぞれみんな違うのよ。わたしたちは人生のあたりまえの関門の前でも、ときどき勇気を失いかけることがあるわ……」
 「確かに、それはそうだな……。しかし、ぼくには夢はもう必要ない。ここでありのままの自分の過去を噛みしめることにするよ」
 わたしたちは、しばらくのあいだ言葉を失った。
 自らの死にゆく運命を受け入れた者と、それを見守る者。
 この人の方が辛いのかも知れない、とわたしは思った。何が彼女にこんな仕事を続けさせているのかはわからなかったが、それが単に報酬のためでないことを、わたしは直感した。
 「庄司さん、わたしにもう一度チャンスをください」
 彼女が俯いた顔を上げて言った。
 「もう、いいんだ……」
 「あなたが今言ったことを考えてみたいの」
 「君のするべきことはもう何もない。それに、わたしにはもうあまり時間がないんだろう?」
 「あなたの手助けがしたいのよ……」
 夜が更けつつあった。わたしは彼女を無視して縁側のガラス戸を閉じ、カーテンを引いた。
 ふり返ると、彼女はまだそこにいて、わたしを見ていた。わたしが黙ったまま、こくりとひとつだけ頷くと、彼女は静かな微笑みを見せて部屋から姿を消した。

     *

 波の音。風の調べ。
 わたしは浜辺の大きな流木の上に座って、海を見ていた。
 夏の終りの人気のない海だった。暮れつつある陽が雲の多い空を赤く染めかけている。 昼間はそれなりに夏らしい暑さだったような気がしたが、今は秋の冷たさを覚えさせる風が吹いていた。
 「最後に海に行ったのは、こんな日だったかしらね」
 声にふり返ると、白い木綿の服を着た女が立っていた。
 「ああ」
 玲子は、わたしの隣に少し距離をおいて座った。
 彼女の容貌はいつもより少し若々しく見えた。昨日までの彼女はずっとわたしと暮らし続けて、わたしとともに若干の齢を重ねた彼女である。今日の彼女は、わたしと彼女が恋人だったころの二十歳の彼女のようだった。
 「もう、五十年以上も昔になったのね……詩は今でも書いているの?」
 「いいや、とっくにやめてしまったよ。諦めてしまった道だからね。書いていれば、未練が残る。きっぱりと書かないことにしたんだ」
 〈夢〉を見限っていたわたしには、もはや詩人となった自分を演じる気などさらさらなかった。
 「そう……残念だわ。わたし、あなたの詩が好きだった……」
 彼女は腰を砂の上に落とし、流木を背にして膝をかかえた。
 「あの日のあなたも、こんなふうに詩を書いていたわね。そして、夏の終わりの風が詩を書いた紙をさらって、わたしの足元に落とした……」
 「君は今と同じ白い服を着ていたね」
 「あの日から、わたし、風が好きになったの。だって、風があなたに会わせてくれたんですもの」
 今の玲子は、わたしが夢見た詩人としての日々とは、はなから無関係のようだった。〈夢〉の中の玲子がこんなに昔のことばかり話すのは初めてのことである。
 「ぼくと別れてからどうしていたんだ?」
 ぶしつけな質問に、彼女の顔に戸惑いがはっきりと現れた。
 「……お見合いして、結婚して、子供が生まれて ――夫は働き者とは言えなかったわ。 詩や音楽とも縁のない人だった……やめましょう、こんな話」
 「いいや、続けてくれ」
 わたしはコンピューターを困らせてやるつもりだった。玲子は少しの間黙っていたが、 やがて悲しそうな目で海を見ながら言った。
 「夫が浮気して、彼とは離婚した……子供は三人ともわたしのところに残ったの。彼から送られてくるはずの養育費が滞って、わたし、必死に働いたわ」
 「苦労したんだな」
 「長男が働き出してからは楽になったわ。息子は事業を成功させて資産家になり、それからは、孫の面倒を見るだけの暮らしだった。この海にも、孫を連れてよくやって来たのよ」
 「ぼくは、あれからここに来たことはない」
 「その海にも、行けなくなったわ。わたし、病気になったの。もう、半年も入院しているわ」
 「君は――」
 「息子も先生も何も言わないけど、わたしにはわかる。ホスピスにいるのですものね。 わたしには、もう時間がないの……」
 わたしは思わず立ち上がり、息を飲んで彼女を見つめた。
 「波の音と風の音……夏の香りのする浜辺。まがいものの〈夢〉でもいい。あなたとの思い出をもう一度確かめたかった」
 「玲子……」
 「その声でわたしの名を、もう一度呼ばれたかったの……」
 わたしは玲子の腕をつかみ、立ち上がらせた。彼女の目に涙が光っていた。
 「本当に君なのか」
 「井上先生に教えられたの。あなたの一番大事な人が同じ夢の世界にいるって。〈夢〉 がしつらえたあなたに会う必要はない。本物のあなたに会えばいいって」
 何ということだろう。このまやかしの世界で、わたしは真実に出会うことになったのだ。
 あの晩、男と手をとっていた玲子は、分裂したイメージの片割れなどではなかった。彼女の記憶からシステムが創造した〈わたし〉自身と手をとる、本物の玲子だったのだ。
 わたしは彼女を強く抱きしめた。
 その腕の中の、たよりなく、そしてはかない感触 ――風に揺れる小さな草花のように悲しげなうなじ……。
 太陽が水平線に並び、浜辺のすべてをやさしいオレンジ色に染めていた。暮れゆく夕日を映した彼女の瞳は、この世のどんな宝石よりも美しかった。
 「ひとつだけ、聞きたい」
 わたしは、彼女の瞳の奥を覗きこみながら言った。
 「君はなぜ、黙ってぼくから去ってしまったんだ」
 「……あなたは立派な大学を出て、大きな会社で難しい仕事をしてた。ときどき見せてくれた詩もすばらしかった。家が貧しくて大学にも行けなかったわたしには、あなたが眩しすぎたの。わたしなんかより頭がよくて美人の女の子が、あなたのまわりにはたくさんいるはずなのに、何でわたしなんかと ――そう思うと、あなたを愛していることが怖くなったの。幸せを感じれば感じるほど、それを失ったときのことが怖かった……」
 「ばかだなあ……」
 わたしはもう一度、彼女を強く抱きしめた。
 わたしはうれしかった。玲子はやはりわたしが考えていた通りの玲子だった。
 「ばかだなあ……君もぼくも……」
 「ああ。もう、時間がないわ」
 彼女はわたしの腕をゆっくりとほどいて、後ずさりした。
 「ごめんなさい。会ったばかりなのに」
 彼女はわたしに背を向けると、海に向かって走った。
 「玲子、時間がないって――」
 「こっちに来ないで。あなたの時間は、まだ少し残っているの」
 「いやだ」
 素足を海に入れて立つ玲子の影が薄くなっていった。
 「玲子!」
 「仕方がないのよ」
 彼女の目から涙が溢れ出た。
 「もし、生まれ変われたら、またこの海であなたに会いたい。そうして、すべての時間をあなたと――」
 言い終えぬうちに、彼女の姿は波に溶けるようにして消えていった。
 わたしは砂の上に膝を落とし、声を上げて泣き崩れた。
 何十年も忘れていた涙が、とめどなく砂を濡らし続けた。
 どのくらい時がたったのかわからない。
 空は紫色に変わり、波が太陽の最後の輝きを沈めようとしていた。
 わたしは立ち上がり、夜の迫った浜辺を幾度もふり返りながら家への道を歩いた。
 わたしは、自分の人生が失敗だったという想いにとりつかれていた。
 失われたのが〈夢〉の玲子であったなら、それはわたしに束の間の〈夢〉の虚しさを教えただけであったろう。
 しかし、本物の玲子の死は、わたしが人生において失ったものの意味を容赦なく突きつけていた。
 悔恨がわたしの全人生を覆いつくし、わたしを打ちのめした。
 この人生でなすべきことは、もはや何もない。
 これで、受けいれることができるだろう、とわたしは思った。
 死は、価値を失った人生から、わたしを救うばかりのものとなったのだ。
 すっかり暗くなった道を裸電球が照らしていた。
 波の音と風の調べだけが、玲子の面影をわたしに訴えていた。

     *

 ホスピスの井上美佳穂の部屋に廊下を歩く足音が聞こえている。
 足音は部屋の前でとまり、ドアをノックする音がした。
 「どうぞ……」
 背の高い白衣姿の医師が入ってきた。
 「死亡診断書を遺族に渡したよ。遺体はすぐに引取りの車が来るそうなので、ベッドにそのままになっている」
 井上美佳穂はテーブルの仮想空間のデータ・リストに目を落としていたが、医師は彼女の手にハンカチが握られているのを見落とさなかった。
 「……患者が死んだからって、いちいち泣いていたら身がもたんよ。早く馴れることだね」
 「医者はそれでいいのよ」
 彼女は書類に向かったまま言った。
 「わたしの仕事はあなたたちとは違う。ときには患者のために泣くのも、わたしの仕事なの」
 「庄司氏は、何か君と特別な関係があったのか。このあいだ、プログラムを徹夜でいじっていたようだったが、あれは彼のためだったんだろう」
 「いいえ」
 彼女は顔を上げて、テーブルに頬杖をついた。
 「ここで初めて会った、ただの患者よ」
 そう言いながら、彼女は流れかけた涙をまた拭った。
 「彼を見送るなら、三十分後に通用門だ」
 「わかったわ……」
 医師はそれだけ言うと、部屋を出ていった。
 美佳穂はテーブルの上の庄司秀樹の最期の記録データに再び目を落とした。
 何度見ても、技術と自分の力の限界を思い知らされるデータだった。
 医療技術は末期患者の苦痛をほとんど完全に取り去ることに成功していた。今や、終末を迎えようとする者は、シミュレーション工学と脳研究の成果を享受して、人生の最良の時を仮想空間で過ごすことができた。そればかりか、実人生でかなわなかった夢すら、仮想空間はかなえてくれる。
 しかし、美佳穂にはわからなかった。
 死にゆく人を慰める方途などあるのだろうか。いったい何が死の運命の代償になり得るのだろうか ――美佳穂は自分の患者が逝くたびに深い溜め息をつき、ときには涙を流してきた。
 彼女は自分を強いて落ち着かせ、庄司秀樹の最期のデータを始末する手順のことを考えることにした。
 仮想空間に患者自身の意志に基づかない恣意的な因子を挿入したのは、彼女の仕事上の権限を越えた行為だった。病院の倫理委員会がこのことを知ったら、彼女を許すことは絶対にあり得ないだろう。
 庄司が最期に会った玲子 ――美佳穂の完全なる創造物であった〈玲子〉は、記録から消去されなければならない。〈玲子〉と会っていた庄司の記録も同じである。それらをすでに展開し終った仮想空間の環境と矛盾しない、別のデータとすり換えておく必要もある。ざっと頭で考えただけでも、けっして楽な仕事ではない。しかし――
 倫理規定を破り、たいへんな手間をかけるだけの価値があったのだろうか?
 庄司秀樹に必要だったのは理想の人生などではなく、死の運命を分かち合える相手なのだ――そう考えて、美佳穂は〈玲子〉を創造した。しかし、彼が死を受け入れる気になったのは、結局は自分の人生への失望からではなかったか。
 美佳穂は頭をふって、暗澹たる思いを振り払おうとした。
 自分は結論の出ない問題に挑戦して、またも敗北したのかも知れない、と彼女は思った。
 そろそろ、庄司の遺体が通用門を出る時間だった。
 美佳穂は立ち上がって白衣の襟を正し、ついさっきコピーした光ディスクを端末機から引き抜いて、それをポケットにおさめた。
 その光ディスクを、彼女は自宅に保存するつもりだった。
 ディスクに記録されているのは、波の音と風の調べ、そして彼女だけが知る、一人の男の愛と絶望の記録であった。


COPY RIGHT:六高寺 弦 ROKKOJI Gen
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